旅装を解きながら、姉に小声で囁いた。
「ええ、」姉は微笑して、「でも、のんきでかへつていいわ。庭も広いやうだし、これからお前が、せいぜい佳い菊を植ゑてあげて、御恩報じをしたらいいのよ。」
「おやおや、姉さんは、こんなところに、ずつと永く居るつもりなのですか?」
「さうよ。私は、ここが気に入つたわ。」と言つて顔を赤くした。姉は、二十歳くらゐで、色が溶けるほど白く、姿もすらりとしてゐた。
その翌朝、才之助と陶本の弟とは、もう議論をはじめてゐた。姉弟たちが代る代る乗つて、ここまで連れて来たあの老いた痩馬がゐなくなつてゐるのである。ゆうべたしかに菊畑の隅に、つないで置いた筈なのに、けさ、才之助が起きて、まづ菊の様子を見に畑へ出たら、馬はゐない。しかも、畑を大いに走り廻つたらしく、菊は食ひ荒され、痛めつけられ、さんざんである。才之助は仰天して、納屋の戸を叩いた。弟が、すぐに出て来た。
「どうなさいました。何か御用ですか。」
「見て下さい。あなたたちの痩馬が、私の畑を滅茶滅茶にしてしまひました。私は、死にたいくらゐです。」
「なるほど。」少年は、落ちついてゐた。「それで? 馬は、どうしました。」
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