な事は、なんでもない。」才之助は、すでに騎虎の勢ひである。「まづ私の家へいらして、ゆつくり休んで、それからお捜しになつたつておそくは無い。とにかく私の家の菊を、いちど御覧にならなくちやいけません。」
「これは、たいへんな事になりました。」少年は、もはや笑はず、まじめな顔をして考へ込んだ。しばらく黙つて歩いてから、ふつと顔を挙げ、「実は、私たち沼津の者で、私の名前は、陶本《たうもと》三郎と申しますが、早くから父母を失ひ、姉と二人きりで暮してゐました。このごろになつて急に姉が、沼津をいやがりまして、どうしても江戸へ出たいと言ひますので、私たちは身のまはりのものを一さい整理して、ただいま江戸へ上る途中なのです。江戸へ出たところで、何の目当もございませんし、思へば心細い旅なのです。のんきに菊の花など議論してみる場合ぢや無かつたのでした。私も菊の花は、いやでないものですから、つい、余計のおしやべりをしてしまひました。もう、よしませう。どうか、あなたも忘れて下さい。これで、おわかれ致します。考へてみると、いまの私たちは、菊の花どころでは無かつたのです。」と淋しさうな口調で言つて目礼し、傍の馬に乗ら
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