いない。ひろい世界に、思いがけぬ同志を得たという事は、君にとっても僕にとっても、なんと素晴らしい事だったろう。けれども、誰も僕に言葉をかけてはくれなかったのだ。僕はヨボヨボになって麹町《こうじまち》の家へ帰ったのです。
それからのことを書くのは、さらにくるしい。僕の生涯に於《おい》て、再びかかる悪事をなさぬことを神に誓う。僕は兄さんを殴ってしまったのだ。夜十時頃、こっそり家へ帰って、暗い玄関で靴《くつ》の紐《ひも》を解いていたら、ぱっと電燈《でんとう》がついて兄さんが出て来た。
「どうだったい? だめか?」のんきな声である。僕は黙っていた。靴を脱いで、式台に立って、無理に薄笑いしてから、答えた。
「きまってるじゃないか。」声が、のどにひっからまる。
「へえ!」兄さんは眼を丸くした。「本当かい?」
「お前がわるいんだ!」矢庭に兄の頬《ほお》を殴った。ああ、この手よ腐れ! 全く理由の無い憤怒である。僕がこんなに、死ぬほど恥ずかしい思いをしているのに、お前たちは上品ぶって、涼しそうな顔をして生きている、くたばれ! というような凶暴な発作にかられて、兄を殴った。兄は、子供のような、べそを掻《
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