うるさいそうである。観客の顔も、どこに誰が来ているという事まで、すぐにわかるようになるそうだ。僕は、まだ、だめだ。夢中だ。いや、生死の境だ。
 役を全部すまして、楽屋風呂へはいって、あすから毎日、と思ったら発狂しそうな、たまらぬ嫌悪《けんお》を覚えた。役者は、いやだ! ほんの一瞬間の事であったが、のた打ち廻《まわ》るほど苦しかった。いっそ発狂したい、と思っているうちに、その苦しみが、ふうと消えて、淋《さび》しさだけが残った。なんじら断食《だんじき》するとき、――あの、十六歳の春に日記の巻頭に大きく書きつけて置いたキリストの言葉が、その時、あざやかに蘇《よみがえ》って来た。なんじは断食するとき、頭《かしら》に油をぬり、顔を洗え。くるしみは誰にだってあるのだ。ああ、断食は微笑と共に行え。せめてもうお十年、努力してから、その時には真に怒れ。僕はまだ一つの、創造をさえしていないじゃないか。いや、創造の技術さえ、僕には未だおぼつかない。
 さびしく、けれどもミルクを一口《ひとくち》飲んだくらいの甘さを体内に感じて風呂から出た。
 団長、市川菊之助の部屋へ挨拶《あいさつ》に行く。
「や、おめでとう
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