他には、なんにも書いていない。
「なんですか、これは。」僕は、さすがに腹が立って来た。愚弄《ぐろう》するにも程度がある。
「ご返事です。」女は、僕の顔を見上げて、無心そうに笑っている。
「春秋座へはいれって言うのですか。」
「そうじゃないでしょうか。」あっさり答える。
 僕だって春秋座の存在は知っている。けれども、春秋座は、それこそ大名題《おおなだい》の歌舞伎《かぶき》役者ばかり集って組織している劇団なのだ。とても僕のような学生が、のこのこ出かけて行って団員になれるような劇団ではない。
「これは、無理ですよ。先生の紹介状でもあったらとにかく、」と言いかけたら、青天|霹靂《へきれき》、
「ひとりでやれ!」と奥から一喝《いっかつ》。
 仰天した。いるのだ。御本尊が襖《ふすま》の陰にかくれて立って聞いていたのだ。びっくりした。ひどい、じいさんだ。ほうほうの態《てい》で僕は退却した。すごい、じいさんだ。実に、おどろいた。家へ帰って兄さんに、きょうのてんまつを語って聞かせたら、兄さんは腹をかかえて笑った。僕も仕方なしに笑ったけれど、ちょっと、いまいましい気持もあった。
 きょうは完全に、やられた
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