先生は少し風邪の気味で、きょうはどなたにも面会できないそうです。御用があるなら、この紙にちょっと書いて下さいまし、そう言って便箋《びんせん》と万年筆を差し出したのである。僕は、がっかりした。老大家というものは、ずいぶんわがままなものだと思った。生活力が強い、とでもいうのか、とにかく業《ごう》の深い人だと思った。
あきらめて玄関の式台に腰をおろし、便箋にちょっと書いた。
「鴎座に受けて合格しました。試験は、とてもいい加減なものでした。一事は万事です。きょうの午後六時に鴎座の研究所へ来い、という通知を、きのうもらいましたが、行きたくありません。迷っています。教えて下さい。じみな修業をしたいのです。芹川進。」
と書いて、女のひとに手渡した、どうも、うまく書けない。女のひとはそれを持って奥へ行ったが、ながい事、出て来なかった。なんだか不安だ。山寺にひとりで、ぽつんと坐《すわ》っているような気持だった。
突然、声たてて笑いながらあの女のひとが出て来た。
「はい、ご返事。」前の便箋とはちがう、巻紙を引きちぎったような小さい紙片を差し出した。毛筆で書き流してある。
春秋座
それだけである。
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