も僕には、この時間が、たのしみなのだ。先々週の、木曜の講義も面白かった。「最後の晩餐《ばんさん》」の研究なのだが、晩餐の十三人が、それぞれ食卓のどの位置についていたか、図解して、とても明瞭《めいりょう》に教えてくれた。そうして十三人全部が、寝そべって食卓についたというのだから驚いた。当時の風習として、食卓のまわりに寝台があって、その寝台にそれぞれ寝そべって飲食したのだそうである。ダヴィンチの「最後の晩餐」は、事実とは違っていたわけである。ロシヤのゲエとかいう画家のかいた「最後の晩餐」の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。どうも僕は、食べることに関心を持ちすぎるようだ。きょうもやっぱり、食べる事に就いて考えて、けれども、之は、あながちナンセンスに終らなかった。多少、得るところがあった。きょうは、寺内師は、旧約の申命記を中心にして講義した。寺内師は、決して、教壇に立って講義はしない。空《あ》いている学生の机に座席をとって、学生と一緒に勉強するような形で、くつろいで話をする。それが、とてもいい感じだ。みんなと楽しい事に就いて相談でもしているような感じだ。きょうは、申命記を中心にして、モーゼの苦心を語ってくれたが、僕はその中でも、モーゼが民衆のたべ物の事にまで世話を焼いているのを興味深く感じた。
「十四章。汝《なんじ》穢《けがら》わしき物は何も食《くら》う勿《なか》れ。汝らが食《くら》うべき獣蓄《けもの》は是《これ》なり即《すなわ》ち牛、羊、山羊《やぎ》、牡鹿《おじか》、羚羊《かもしか》、小鹿、※[#「鹿+嚴」、148−1]《やまひつじ》、※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《くじか》、麈《おおじか》、※[#「鹿/京」、148−1]《おおくじか》、など。凡《すべ》て獣蓄《けもの》の中蹄《うちひづめ》の分れ割れて二つの蹄を成せる反蒭獣《にれはむけもの》は汝ら之《これ》を食《くら》うべし。但《ただ》し反蒭者《にれはむもの》と蹄の分れたる者の中《うち》汝らの食《くら》うべからざる者は是なり即ち駱駝《らくだ》、兎《うさぎ》および山鼠《やまねずみ》、是らは反蒭《にれはめ》ども蹄わかれざれば汝らには汚《けが》れたる者なり。また豚是は蹄わかるれども反蒭《にれはむ》ことをせざれば汝らには汚《けがれ》たる者なり、汝ら
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