」という台詞《せりふ》のとおり、かねて、あこがれていた俳優が、あまりにも容易に掴《つか》み取れそうなのを見て、うんざりしたのか。
「進は、合格しても、あまり嬉しそうでないじゃないか。」兄さんも、そう言っていた。
「考えてみます。」僕は、まじめに答えた。
今夜は、兄さんと、とてもつまらぬ議論をした。たべものの中で、何が一番おいしいか、という議論である。いろいろ互いに食通振《しょくつうぶ》りを披瀝《ひれき》したが、結局、パイナップルの鑵詰《かんづめ》の汁《しる》にまさるものはないという事になった。桃の鑵詰の汁もおいしいけど、やはり、パイナップルの汁のような爽快《そうかい》さが無い。パイナップルの鑵詰は、あれは、実《み》をたべるものでなくて、汁だけを吸うものだ、という事になって、
「パイナップルの汁なら、どんぶりに一ぱいでも楽に飲めるね。」と僕が言ったら、
「うん、」と兄さんもうなずいて、「それに氷のぶっかきをいれて飲むと、さらにおいしいだろうね。」と言った。兄さんも、ばかな事を考えている。
たべものの話をしたら、やけにおなかが空《す》いて来たので、食通ふたりは、こっそり台所へ行って、おむすびを作ってたべた。非常においしかった。
ニヒルと、食慾《しょくよく》と、何か関係があるらしい。
兄さんは、いま、隣室で、小説を書いている。もう五十枚以上になったらしい。二百枚の予定だそうだ。雪が降りはじめた時に、という書出しから始まる美しい小説だ。僕は十枚ばかり読ませてもらった。出来上ったら、文学公論の懸賞に応募するんだそうだ。兄さんは以前、懸賞の応募を、あんなに軽蔑していたのに、どうしたのだろう。
「懸賞に応募するなんて、自分を粗末にする事じゃないのかな。作品が、もったいない。」と僕が言ったら、
「でも、あたったら二千円だ。お金でも、とれるんでなかったら、小説なんて、ばからしい。」と、とても下品な表情をして言ったが、兄さんは、このごろ、ずいぶんお酒も飲むし、なんだか、堕落しているんじゃないかしら、と心配だ。
いずれを見ても、理想の喪失。
今夜は、ばかに眠い。
五月十一日。木曜日。
曇。風強し。きょうは、やや充実した日だった。きのうの僕は幽霊だったが、きょうは、いくぶん積極的な生活人だった。学校の聖書の講義が面白かった。毎週一回、寺内神父の特別講義があるのだが、いつ
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