劣だ! 世の中で、一ばん救われ難《がた》い種属の男だ。これが、あの、「伯父ワーニャ」を演じて日本一と称讃《しょうさん》せられた上杉新介氏の正体か。なってないじゃないか。
「ファウスト!」横沢氏は叫ぶ。がっかりした。桜の園なら自信があったのだけれど、ファウストは苦手《にがて》だ。だいいち僕は、ファウストを通読した事さえない。落第、僕は落第だ。
「この部分をお願いします。」上杉氏は、僕にテキストを手渡して、そうして朗読すべき箇所を鉛筆で差し示した。「一ぺん黙読して、自信を得てから朗読して下さい。」なんだか意地の悪い言い方だ。
 僕は黙読した。ワルプルギスの夜の場らしい。メフィストフェレスの言葉だ。
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そこの爺《じ》いさん、岩の肋骨《ろっこつ》を攫《つか》まえていないと、
あなた、谷底へ吹き落されてしまいますぜ。
霧が立って夜闇《よやみ》の色を濃くして来た。
あの森の木のめきめき云《い》うのをお聞きなさい。
梟奴《ふくろうめ》がびっくりして飛び出しゃあがる。
お聞きなさい。永遠《とわ》の緑の宮殿の
柱が砕けているのです。
枝がきいきい云って折れる。
幹はどうどうと大きい音をさせる。
根はぎゅうぎゅうごうごう云う。
上を下へとこんがらかって、畳《かさ》なり合って、
みんな折れて倒れるのです。
そしてその屍《しかばね》で掩《おお》われている谷の上を
風はひゅうひゅうと吹いて通っています。
あなた、あの高い所と、
遠い所と、近い所とにする声が聞えますか。
此山《このやま》を揺《ゆ》り撼《うご》かして、
おそろしい魔法の歌が響いていますね。
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「僕には朗読できません。」ざっと黙読してみたのだが、このメフィストの囁《ささや》きは、僕には、ひどく不愉快だった。ひゅうひゅうだの、ぎゅうぎゅうだの不愉快な擬音《ぎおん》ばかり多くて、いかにも悪魔の歌らしく、不健康な、いやらしい感じで、とても朗読する気など起らなかった。落第したっていいんだ。「ほかの所を読みます。」
 でたらめに、テキストをぱらぱらめくって、ちょっと佳いところを見つけて、大声で朗読をはじめた。第二部、花咲ける野の朝。眼ざめたるファウスト。
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上を見ればどうだ。巨人のような山の巓《いただき》が、
もう晴がましい時を告げている。
あの巓は、後になって己《おれ》達
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