事をおっしゃいますわね。
(野中) 知ってるよ。お前のあこがれのひとは、誰だか。
(節子) まあ! そんな。よして下さい! 下劣ですわ。
(野中) なんでも無いじゃないか。人間は皆、あこがれのひとを二人や三人持っているものだ。で、どうなんだい? その後の進行状態は。
(節子) わたくしには、あなたのおっしゃる事が、ちっともわかりません。
(野中) よし、それじゃ、わかるように言ってやろう。お前は、きょう僕の帰る前に、奥田先生の部屋に行っていたね。
(節子)(はっきり)ええ、まいりました。奥田先生がおひとりで晩ごはんのお仕度《したく》をしていらっしゃるという事を母から聞いて、何かお手伝いでもしようかと思ってお部屋をのぞいてみました。
(野中) それは、ご親切な事だ。お前にもそれだけの愛情があるとは妙だ。いいことだ。美談だ。しかし、僕が外から声をかけたとたんに、お前はふっと姿をかき消したが、あれは、どういうご親切からなんだい?
(節子) いやだったからです。
(野中) へんだね。
(節子)(泣き声になり)いったい、なんとお答えしたらいいのです。
(野中) まあ、いいや。よそう。つまらん。どうせお前には、かないっこないんだ。ああ、あ。世は滔々《とうとう》として民主革命の行われつつあり、同胞ひとしく祖国再建のため、新しいスタートラインに並んで立って勇んでいるのに、僕ひとりは、なんという事だ。相も変らず酔いどれて、女房に焼きもちを焼いて、破廉恥《はれんち》の口争いをしたりして、まるで地獄だ。しかし、これもまた僕の現実。ああ、眠い。このまま眠って、永遠に眼が覚めなかったら、僕もたすかるのだがなあ。(眠った様子)
(節子)(野中の肩に手をかけて)もし、もし。(肩をゆすぶる)
(野中)(なかば、うわごとの如く)殺せ! うるさい! あっちへ行け!
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奥田教師、上手《かみて》より、うろうろ登場。
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(奥田) あ、おくさん! (寝ている野中を見ていよいよ驚き)どうしたんです、これあ。
(節子) あなたの後を追ってここまで来て、寝てしまいました。それよりも、菊代さんは? いかがでしたの?
(奥田) いや、それがね、あの子供たちを途中で見失ってしまいましてね。とにかく、僕ひとり警察の前まで行って、それとなく中の様子をうかがって見たんですが、ばかに静かで、べつに変った事も無いようなんです。へたに騒ぎ立てて恥をかいてもつまりませんし、さっきの生徒たちを捜して、もういちどよく聞きただそうと思って、引返して来たところなんです。ことによったら、あいつ、……。
(節子) え?
(奥田) いや、べつに、……。
(節子) 奥田先生! わたくしどもは、菊代さんに何か悪い事でもしたのでしょうか。
(奥田)(あらたまって)なぜですか?
(節子) ばくちで警察に挙げられたなんて、嘘《うそ》です。わたくしには、もうみな、わかりました。(急に泣き出す)あんまりですわ。あんまりですわ。なぜ、わたくしどもはこんなに、菊代さんにからかわれなければならないのです。
(奥田) すみません。実は、僕も、警察の前まで行って、すぐこれあ菊代に一ぱい食わされたなと思ったのですが、しかし、もしそうだとしても、なんのために、子供たちまで使って、こんな、ばからしい狂言を、……。
(節子) それは、わかっています。菊代さんは、野中をけしかけて酒や肴《さかな》を買わせて、そうしてわたくしや母にまでごちそうさせて、それから、そのお金は実は菊代さんがばくちでもうけたお金だという事を知らせて、いい気持でごちそうになっている母やわたくしがみっともなく狼狽《ろうばい》するさまを、かげでごらんになってあざ笑うつもりだったのでしょうけれど、でも、それにしても、策略があくどすぎます。あんまり、意地がわるすぎます。
(奥田) すると? あの金は?
(節子) ご存じじゃなかったのですか? 菊代さんのお金です。
(奥田) そうですか。いや、いかにも、あいつのやりそうないたずらだ。(笑う)
(節子) まだあります。野中にたきつけて、わたくしとあなたと、……。
(奥田)(まじめになり)しかし、おくさん。妹はばかな奴《やつ》ですが、そんな、くだらない事は言わない筈《はず》です。
(節子) でも、野中はさっき、わたくしを疑っているような、いやな事を言いました。
(奥田) それじゃあ、それは野中先生ひとりの空想です。野中先生は少しロマンチストですからね。いつか僕と議論した事がありました。野中先生のおっしゃるには、この世の中にいかにおびただしく裏切りが行われているか、おそらくは想像を絶するものだ、いかに近い肉親でも友人で
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