も、かげでは必ず裏切って悪口や何かを言っているものだ、人間がもし自分の周囲に絶えず行われている自分に対する裏切りの実相を一つ残らず全部知ったならば、その人間は発狂するだろう、という事でした。しかし僕はそれに反対して、人間は現実よりも、その現実にからまる空想のために悩まされているものだ。空想は限りなくひろがるけれども、しかし、現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎないのだ。この世の中は、決して美しいところではないけれども、しかし、そんな無限に醜悪なところではない。おそろしいのは、空想の世界だ、とまあ言ったのですが、どうも、野中先生の空想には困ります。
(節子)(変った声で)でも、それが本当だったら?
(奥田)(どぎまぎして)え? 何がですか?
(節子) 野中のその空想が。
(奥田) おくさん! (怒ったように)何をおっしゃるのです。
(節子)(声を挙げて泣き)わたくしは今まで何一つ悪い事をした覚えがありません。それなのに、なぜみなさんがわたくしをこんなにいじめるのでしょう。わたくしは自身の楽しみは一つもせずに、野中の家のために努めて来ました。家の名誉を大事に守るというのは悪い事ですか? 教えて下さい。あすの生活の不安の無いように、辛抱してむだ遣《づか》いをつつしむというのは悪い事ですか? 田舎女は田舎女らしく、音楽会や映画にも行かず家《うち》の中で黙って針仕事をしている事は、わるい事ですか? 小説も読まず酒も飲まず行儀をよくして男のひとと間違いを起さないというのは、悪い事ですか? 野中が先刻、間違いをしない人間は薄情だと言いましたが、そんなら人間は間違いをしたほうが正しいのですか? 先生、わたくしは田舎くさくて頭の悪い女です。何もわかりません。教えて下さい。わたくしが先生を好きだったとしたら、かりにそうだったとしたら、かえってわたくしが正しいのですか? わたくしは口が下手《へた》です。よく言えないんです。わたくしは、言葉を知らないのです。ただ、わたくしは、こらえて来ました。辛抱して来ました。自分で自分のすきな事を言ったりおこなったりするのは悪い事だと思って来ました。先生、教えて下さい。わたくしはもう、何がどうなのか、わからなくなって来たのです。わたくしのどこがいけなくて、みんながわたくしをこんなにいじめるのですか。
(奥田) おくさん。善悪の彼岸という言葉がありますね。善と悪との向う岸です。倫理には、正しい事と正しくない事と、それからもう一つ何かあるんじゃないでしょうかね。おくさんのように、ただもう、物事を正、不正と二つにわけようとしても、わけ切れるものではないんじゃないですか?
(節子) よくわかりませんけれど、それでは、わたくしが何か間違いを起しても?
(奥田)(笑って)それあいけません。どだい、不自然ですよ。それこそ、おくさんの空想の領域です。おくさんは、野中先生をずいぶん大事にしていらっしゃる。それがまた、おくさんの生き甲斐《がい》なのでしょう? ばかばかしい空想はやめましょう。おくさん、今夜は、どうかしていますね。現実の問題にかえりましょう。(語調をあらためて)僕たちは、お宅から引越します。問題は、それだけです。僕は学校の宿直室へ行きますし、妹は、あれは、東京へまた帰ったほうがいいだろうと思います。
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遠くから、はる、こうろうの花のえん、の合唱が聞える。学童たちの声にまじって、菊代らしき女の声もまじる。

間。
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(節子)(冷静になり、顔を挙げて、はっきり)そうお願い致します。
(奥田)(かえってまごつき)なんですか?
(節子)(それにかまわず、遠くの歌声に耳を傾け)ああやって歌をうたって遊ぶのが、都会ふうで、そうして文化的とかいうもので、日本はこれから、男も女もみんな、菊代さんのようにならなければならないのでしょうか。わたくしのような、旧式な田舎女は、もう、だめなのでしょうか。わたくしには、やっぱりどうしても、わかりませんわ。なぜ、人間は、都会ふうでなければいけないのです。なぜ、田舎くさいのは、だめなんです。
(奥田) 人間がだめになったんですよ。張り合いが無くなったんですよ。大理想も大思潮も、タカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕は、いまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。菊代の事は、菊代自身が処理するでしょう。僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人《おとな》かも知れません。自己に就《つ》いての空想は、少しも持っていません。
(節子)(しずかに)それは、どんな意味ですの?
(奥田) 妹は妹、僕は僕、という事です。いや、人は人、僕は僕、と言っ
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