た刹那に、肉体も、ともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえば、たすかるのだが、そうもいかない。」
「意気地がないのね。」
「ああ、もう、言葉は、いやだ。なんとでも言える。刹那のことは、刹那主義者に問え、だ。手をとって教えてくれる。みんな自分の料理法のご自慢だ。人生への味附けだ。思い出に生きるか、いまのこの刹那に身をゆだねるか、それとも、――将来の希望とやらに生きるか、案外、そんなところから人間の馬鹿と悧巧《りこう》のちがいが、できて来るのかも知れない。」
「あなたは、ばかなの?」
「およしよ、K。ばかも悧巧もない。僕たちは、もっとわるい。」
「教えて!」
「ブルジョア。」
それも、おちぶれたブルジョア。罪の思い出だけに生きている。ふたり、たいへん興ざめして、そそくさと立ちあがり、手拭い持って、階下の大浴場へ降りて行く。
過去も、明日も、語るまい。ただ、このひとときを、情にみちたひとときを、と沈黙のうちに固く誓約して、私も、Kも旅に出た。家庭の事情を語ってはならぬ。身のくるしさを語ってはならぬ。明日の恐怖を語ってはならぬ。人の思惑を語ってはならぬ。きのうの恥を語ってはならぬ。ただ、こ
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