のひととき、せめて、このひとときのみ、静謐《せいひつ》であれ、と念じながら、ふたり、ひっそりからだを洗った。
「K、僕のおなかのここんとこに、傷跡があるだろう? これ、盲腸の傷だよ。」
 Kは、母のように、やさしく笑う。
「Kの脚だって長いけれど、僕の脚、ほら、ずいぶん長いだろう? できあいのズボンじゃ、だめなんだ。何かにつけて不便な男さ。」
 Kは、暗闇の窓を見つめる。
「ねえ、よい悪事って言葉、ないかしら。」
「よい悪事。」私も、うっとり呟《つぶや》いてみる。
「雨?」Kは、ふと、きき耳を立てる。
「谷川だ。すぐ、この下を流れている。朝になってみると、この浴場の窓いっぱい紅葉だ。すぐ鼻のさきに、おや、と思うほど高い山が立っている。」
「ときどき来るの?」
「いいえ。いちど。」
「死にに。」
「そうだ。」
「そのとき遊んだ?」
「遊ばない。」
「今夜は?」Kは、すましている。
 私は笑う。「なあんだ、それがKの、よい悪事か。なあんだ。僕はまた、――」
「なに。」
 私は決意して、「僕と、一緒に死ぬのかと思った。」
「ああ、」こんどは、Kが笑った。「わるい善行って言葉も、あるわよ。」

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