浴場のながい階段を、一段、一段、ゆっくりゆっくり上る毎に、よい悪事、わるい善行、よい悪事、わるい善行、よい悪事、わるい善行、……。
 芸者をひとり、よんだ。
「私たち、ふたりで居ると、心中しそうで危いから、今夜は寝ないで番をして下さいな。死神が来たら、追っ払うんですよ。」Kがまじめにそう言うと、
「承知いたしました。まさかのときには、三人心中というてもあります。」と答えた。
 観世縒《かんぜより》に火を点じて、その火の消えないうちに、命じられたものの名を言って隣の人に手渡す、あの遊戯をはじめた。ちっとも役に立たないもの。はい。
「片方割れた下駄。」
「歩かない馬。」
「破れた三味線。」
「写らない写真機。」
「つかない電球。」
「飛ばない飛行機。」
「それから、――」
「早く、早く。」
「真実。」
「え?」
「真実。」
「野暮《やぼ》だなあ。じゃあ、忍耐。」
「むずかしいのねえ、私は、苦労。」
「向上心。」
「デカダン。」
「おとといのお天気。」
「私。」Kである。
「僕。」
「じゃあ、私も、――私。」火が消えた。芸者のまけである。
「だって、むずかしいんだもの。」芸者は、素直にくつろいでいた。
「K、冗談だろうね。真実も、向上心も、Kご自身も、役に立たないなんて、冗談だろうね。僕みたいな男だっても、生きて居る限りは、なんとかして、立派に生きていたいとあがいているのだ。Kは、ばかだ。」
「おかえり。」Kも、きっとなった。「あなたのまじめさを、あなたのまじめな苦しさを、そんなに皆に見せびらかしたいの?」
 芸者の美しさが、よくなかった。
「かえる。東京へかえる。お金くれ。かえる。」私は立ちあがって、どてらを脱いだ。
 Kは、私の顔を見上げたまま、泣いている。かすかに笑顔を残したまま、泣いている。
 私は、かえりたくなかった。誰も、とめてはくれないのだ。えい、死のう、死のう。私は、着物に着換えて足袋《たび》をはいた。
 宿を出た。走った。
 橋のうえで立ちどまって、下の白い谷川の流れを見つめた。自分を、ばかだと思った。ばかだ、ばかだ、と思った。
「ごめんなさい。」ひっそりKは、うしろに立っている。
「ひとを、ひとをいたわるのも、ほどほどにするがいい。」私は泣き出した。
 宿へかえると、床が二つ敷かれていた。私は、ヴェロナアルを一服のんで、すぐに眠ったふりをした。しばらくして、Kは、そっと起きあがり、同じ薬を一服のんだ。

 あくる日は、ひるすぎまで、床の中でうつらうつらしていた。Kはさきに起きて、廊下の雨戸をいちまいあけた。雨である。
 私も起きて、Kと語らず、ひとりで浴場へ降りていった。
 ゆうべのことは、ゆうべのこと。ゆうべのことは、ゆうべのこと。――無理矢理、自分に言いきかせながら、ひろい湯槽《ゆぶね》をかるく泳ぎまわった。
 湯槽から這い出て、窓をひらき、うねうね曲って流れている白い谷川を見おろした。
 私の背中に、ひやと手を置く。裸身のKが立っている。
「鶺鴒《せきれい》。」Kは、谷川の岸の岩に立ってうごいている小鳥を指さす。「せきれいは、ステッキに似ているなんて、いい加減の詩人ね。あの鶺鴒は、もっときびしく、もっとけなげで、どだい、人間なんてものを問題にしていない。」
 私も、それを思っていたのだ。
 Kは、湯槽にからだを、滑りこませて、
「紅葉《もみじ》って、派手な花なのね。」
「ゆうべは、――」私が言い澱《よど》むと、
「ねむれた?」無心にたずねるKの眼は、湖水のように澄んでいる。
 私は、ざぶんと湯槽に飛び込み、「Kが生きているうち、僕は死なない、ね。」
「ブルジョアって、わるいものなの?」
「わるいやつだ、と僕は思う。わびしさも、苦悩も、感謝も、みんな趣味だ。ひとりよがりだ。プライドだけで生きている。」
「ひとの噂だけを気にしていて、」Kは、すらと湯槽から出て、さっさとからだを拭きながら、「そこに自分の肉体が在ると思っているのね。」
「富めるものの天国に入るは、――」そう冗談に言いかけて、ぴしと鞭《むち》打たれた。「人なみの仕合せは、むずかしいらしいよ。」

 Kはサロンで紅茶を飲んでいた。
 雨のせいか、サロンは賑《にぎわ》っていた。
「この旅行が、無事にすむと、」私は、Kとならんで、山の見える窓際の椅子に腰をおろした。「僕は、Kに何か贈り物しようか。」
「十字架。」そう呟くKの頸《くび》は、細く、かよわく見えた。
「ああ、ミルク。」女中にそう言いつけてから、「K、やっぱり怒っているね。ゆうべ、かえるなんて乱暴なこと言ったの、あれ、芝居だよ。僕、――舞台中毒かも知れない。一日にいちど、何か、こう、きざに気取ってみなければ、気がすまないのだ。生きて行けないのだ。いまだって、ここにこうやって坐っていても、死ぬほ
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