いし》があった。父のクロオジヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。
 奇妙な事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と、口とを、水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆い、これを窒息させ死にいたらしめむと企てた。アグリパイナは、憤怒に蒼ざめ、――」
「待て、待て。」詩人は、悲鳴に似た叫びを挙げた。「ひとの忍耐にも限りがある。一体、それは何だね。」
「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオジヤスの后になりすまして、そうしてクロオジヤスを毒殺する。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは位についた。それから、――」
「ネロも悪い事をする。」詩人は落ちついて言った。

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