こ歩き廻るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたのだが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々《ずうずう》しい事のようだから、そこの小さい窓から庭を、むさぼるように眺めるだけで我慢する事にした。
「池の水蓮《すいれん》は、今年はまあ、三十二も咲きましたよ。」祖母の大声は、便所まで聞える。「嘘《うそ》でも何でも無い、三十二咲きましたてば。」祖母は先刻から水蓮の事ばかり言っている。
私たちは午後の四時頃、金木の家を引き上げ、自動車で五所川原に向った。気まずい事の起らぬうちに早く引き上げましょう、と私は北さんと前もって打ち合せをして置いたのである。さしたる失敗も無く、謂《い》わば和気藹々裡《わきあいあいり》に、私たちはハイヤアに乗った。北さん、中畑さん、私、それから母。嫂や英治さんの優しいすすめに依《よ》って母も、私たちと一緒に、五所川原まで行く事になったのである。行く先は叔母の家である。私はそこに一泊する事になっていた。北さんも、そこに一泊してそうして翌《あく》る日から私と二人で、浅虫温泉やら十和田湖などあちこち遊び廻ろうというのが、私たちの東京を立つ時からの計画であったのだが、けさほど東京の北さんのお宅から金木の家へ具合いの悪い電報が来ていて、それがために、どうしても今夜、青森発の急行で帰京しなければならなくなってしまったのである。北さんのお隣りの奥さんが死んだ、という電報であったが、北さんは、こりゃいけない、あの家は非常に気の毒な家で、私がいないとお葬式も出せない、すぐ行かなくちゃいけない、と言って、一度言い出したら、もう何といっても聞きいれない、頑固な大久保氏なのだから、私たちも無理に引きとめる事はしなかった。叔母の家で、みんな一緒に夕ごはんを食べて、それから五所川原駅まで北さんを送って行った。北さんはこれからまた汽車に乗ってどんなに疲れる事だろうと思ったら、私は、つらくてかなわなかった。
その夜は叔母の家でおそくまで、母と叔母と私と三人、水入らずで、話をした。私は、妻が三鷹の家の小さい庭をたがやして、いろんな野菜をつくって
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