いるという事を笑いながら言ったら、それが、いたくお二人の気に入ったらしく、よくまあ、のう、よくまあ、と何度も二人でこっくりこっくり首肯《うなず》き合っていた。私も津軽弁が、やや自然に言えるようになっていたが、こみいった話になると、やっぱり東京の言葉を遣《つか》った。母も叔母も、私がどんな商売をしているのか、よくわかっていない様子であった。私は原稿料や印税の事など説明して聞かせたが、半分もわからなかったらしく、本を作って売る商売なら本屋じゃないか、ちがいますか、などという質問まで飛び出す始末なので、私は断念して、まあ、そんなものです、と答えて置いた。どれくらいの収入があるものです、と母が聞くから、はいる時には五百円でも千円でもはいります、と朗《ほが》らかに答えたが、母は落ちついて、それを幾人でわけるのですか、と言ったので、私はがっかりした。本屋を営んでいるものとばかり思い込んでいるらしい。けれども、原稿料にしろ印税にしろ、自分ひとりの力で得たと思ってはいけないのだ、みんなの合作と思わなければならぬ、みんなでわけるのこそ正しい態度かも知れぬ、と思ったりした。
 母も叔母も、私の実力を一向にみとめてくれないので、私は、やや、あせり気味になって、懐中から財布《さいふ》を取り出し、お二人の前のテエブルに十円紙幣を二枚ならべて載せて、
「受け取って下さいよ。お寺参りのお賽銭《さいせん》か何かに使って下さい。僕には、お金がたくさんあるんだ。僕が自分で働いて得たお金なんだから、受け取って下さい。」と大いに恥ずかしかったが、やけくそになって言った。
 母と叔母は顔を見合せて、クスクス笑っていた。私は頑強にねばって、とうとう二人にそのお金を受け取らせた。母は、その紙幣を母の大きい財布にいれて、そうしてその財布の中から熨斗袋《のしぶくろ》を取り出し、私に寄こした。あとでその熨斗袋の内容を調べてみたら、それには私の百枚の創作に対する原稿料と、ほぼ同額のものがはいっていた。
 翌る日、私は皆と別れて青森へ行き、親戚《しんせき》の家へ立寄ってそこへ一泊して、あとはどこへも立寄らず、逃げるようにして東京へ帰って来た。十年振りで帰っても、私は、ふるさとの風物をちらと見ただけであった。ふたたびゆっくり、見る折があろうか。母に、もしもの事があった時、私は、ふたたび故郷を見るだろうが、それはまた、つらい
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