は、昔のままだった。
 生家の玄関にはいる時には、私の胸は、さすがにわくわくした。中はひっそりしている。お寺の納所《なっしょ》のような感じがした。部屋部屋が意外にも清潔に磨かれていた。もっと古ぼけていた筈なのに、小ぢんまりしている感じさえあった。悪い感じではなかった。
 仏間に通された。中畑さんが仏壇の扉を一ぱいに押しひらいた。私は仏壇に向って坐って、お辞儀をした。それから、嫂《あによめ》に挨拶した。上品な娘さんがお茶を持って来たので、私は兄の長女かと思って笑いながらお辞儀をした。それは女中さんであった。
 背後にスッスッと足音が聞える。私は緊張した。母だ。母は、私からよほど離れて坐った。私は、黙ってお辞儀をした。顔を挙げて見たら、母は涙を拭いていた。小さいお婆さんになっていた。
 また背後に、スッスッと足音が聞える。一瞬、妙な、(もったいない事だが、)気味の悪さを感じた。眼の前にあらわれるまで、なんだかこわい。
「修ッちゃあ、よく来たナ。」祖母である。八十五歳だ。大きい声で言う。母よりも、はるかに元気だ。「逢いたいと思うていたね。ワレはなんにも言わねども、いちど逢いたいと思うていたね。」
 陽気な人である。いまでも晩酌を欠かした事が無いという。
 お膳が出た。
「飲みなさい。」英治さんは私にビイルをついでくれた。
「うん。」私は飲んだ。
 英治さんは、学校を卒業してから、ずっと金木町にいて、長兄の手助けをしていたのだ。そうして、数年前に分家したのである。英治さんは兄弟中で一ばん頑丈な体格をしていて、気象も豪傑《ごうけつ》だという事になっていた筈なのに、十年振りで逢ってみると、実に優しい華奢《きゃしゃ》な人であった。東京で十年間、さまざまの人と争い、荒くれた汚い生活をして来た私に較《くら》べると、全然別種の人のように上品だった。顔の線も細く、綺麗だった。多くの肉親の中で私ひとりが、さもしい貧乏人根性の、下等な醜い男になってしまったのだと、はっきり思い知らされて、私はひそかに苦笑していた。
「便所は?」と私は聞いた。
 英治さんは変な顔をした。
「なあんだ、」北さんは笑って、「ご自分の家へ来て、そんな事を聞くひとがありますか。」
 私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこの
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