美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
私はカルモチンをたくさん嚥下《えんか》したが、死ななかった。
「死ぬには、及ばない。君は、同志だ。」と或る学友は、私を「見込みのある男」としてあちこちに引っぱり廻した。
私は金を出す役目になった。東京の大学へ来てからも、私は金を出し、そうして、同志の宿や食事の世話を引受けさせられた。
所謂《いわゆる》「大物」と言われていた人たちは、たいていまともな人間だった。しかし、小物には閉口であった。ほらばかり吹いて、そうして、やたらに人を攻撃して凄《すご》がっていた。
人をだまして、そうしてそれを「戦略」と称していた。
プロレタリヤ文学というものがあった。私はそれを読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、私はどういうわけか、鳥肌立って、そうして眼がしらが熱くなるのである。君には文才があるようだから、プロレタリヤ文学をやって、原稿料を取り党の資金にするようにしてみないか、と同志に言われて、匿名《とくめい》で書いてみた事もあったが、書きながら眼がしらが熱くなって来て、ものにならなかった。(この頃、
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