思い出話になるのだ。「一対一。そのうち勝負をつけましょう、と言い、私もそれをたのしみにしていたのに。」
ここを訪《おとな》うみちみち私は、深田氏を散歩に誘い出して、一緒にお酒をたくさん呑もう悪い望や、そのほかにも二つ三つ、メフィストのささやきを準備して来た筈であったのに、このような物静かな生活に接しては、われの暴《あら》い息づかいさえはばかられ、一ひらの桜の花びらを、掌に載せているようなこそばゆさで、充分に伸ばした筈の四肢さえいまは萎縮して来て、しだいしだいに息苦しく、そのうちにぽきんと音たててしょげてしまった。なんにも言えず飼い馴らされた牝豹《めひょう》のように、そのままそっと、辞し去った。お庭の満開の桃の花が私を見送っていて、思わずふりかえったが、私は花を見て居るのではなかった。その満開の一枝に寒くぶらんとぶらさがっている縄きれを見つめていた。あの縄をポケットに仕舞って行こうか。門のそとの石段のうえに立って、はるか地平線を凝視し、遠あかねの美しさが五臓六腑《ごぞうろっぷ》にしみわたって、あのときは、つくづくわびしく、せつなかった。ひきかえして深田久弥にぶちまけ、二人で泣こうか。ば
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