たの?」
「わしゃ知らん。」タララ、タ、タタタ、廊下でタップ・ダンスの稽古《けいこ》をして、「返さない男じゃねえよ。我慢しろよ。ちょっとの間じゃねえか。」
「きっとね?」
「あさましい顔をするなよ。告げ口したら、ぶん殴《なぐ》る。」
悪びれた様子もなかった。節子は、兄を信じた。その訪問着は、とうとうかえって来なかった。その訪問着だけでなく、その後も着物が二枚三枚、箪笥から消えて行くのだ。節子は、女の子である。着物を、皮膚と同様に愛惜している。その着物が、すっと姿を消しているのを発見する度毎に、肋骨《ろっこつ》を一本失ったみたいな堪えがたい心細さを覚える。生きて甲斐《かい》ない気持がする。けれどもいまは、兄を信じて待っているより他は無い。あくまでも、兄を信じようと思った。
「売っちゃ、いやよ。」それでも時々、心細さのあまり、そっと勝治に囁《ささや》くことがある。
「馬鹿野郎。おれを信用しねえのか。」
「信用するわ。」
信用するより他はない。節子には、着物を失った淋しさの他に、もし此《こ》の事が母に勘附《かんづ》かれたらどうしようという恐ろしい不安もあった。二、三度、母に対して苦しい言
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