かえして、」父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽《かす》かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでしょう?」
「誰が言ったんです! 誰が!」矢庭《やにわ》に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴《け》って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」
恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の如くアトリエを飛び出し、ちくしょうめ! ちくしょうめ! を連発しながら節子を捜し廻り、茶の間で見つけて滅茶苦茶にぶん殴《なぐ》った。
「ごめんなさい、兄さん、ごめん。」節子が告げ口したのではない。父がひとりで、いつのまにやら調べあげていたのだ。
「馬鹿にしていやあがる。ちくしょうめ!」引きずり廻して蹴たおして、自分もめそめそ泣き出して、「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 兄さんは、な、こう見えたって、人から奢《おご》られた事なんかただの一度だってねえんだ。」意外な自慢を口走った。ひとに遊興費を支払わせたことが一度も無いというのが、この男の生涯に於ける唯一の必
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