た。さちよは、ひとりで大笑ひした。見てゐると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたはむれてゐるやうで、期待してゐた決闘の凛烈さは、少しもなかつた。二人の男も、なんだか笑ひながらしてゐるやうで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひつくりかへり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになつて、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走つて三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしやと三木の頬をぶつた。
 三木は、ふりかへつて、
「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがつて、さつさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛してゐるのか。」
 さちよは、烈しく首を振つた。
「それぢや、そんな、おセンチな正義感は、よしたまへ。いいかい。憐憫と愛情とは、ちがふものだ。理解と愛情とは、ちがふものだ。」言ひながら、身なりを調へ、いつもの、ちよつと気取つた歴史的さんにかへつて、「さあ、帰らう。君は、君の好ききらひに、もつとわがままであつて、いいんだぜ。きらひな奴は、これは、だめさ。どんなに、つき合つたつて、好きになれるものぢやない。」
 助七は、仰向に寝ころんだまま、両手で顔を覆ひ、異様に唸つて泣いてゐた。
 三木の二重まはしの中にかくれるやうにぴつたり寄り添ひ、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎよつとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れた柳の絵模様の青い蛇の目傘を、焚火がはりに、ぼうぼう燃やしてあたつてゐた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はつきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されてゐるやうな思ひであつた。


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本編には、女優高野幸代の女優としての生涯を記す。
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 高野さちよを野薔薇としたら、八重田数枝は、あざみである。大阪の生れで、もともと貧しい育ちの娘であつた。お菓子屋をしてゐる老父母は健在である。多くの弟妹があつて数枝はその長女である。小学校を出たきりで、そのうちに十九歳、問屋からしばしばやつて来るお菓子職人と遊んで、ふたり一緒に東京へ出て来た。父母も、はんぶんは黙許のかたちであつた。お菓子職人、二十三歳。上京して、早速、銀座のベエカリイに雇はれた。薄給である。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり
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