上品でないバアである。少しづつ離れて、たちまち加速度を以て、離れてしまつた。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡な女給である。人生は、こんなものだ。ひとは、たよりにならない。幼いころから、さう教へられ、さうして、そのとほりに思ひこんでゐた。二十四になつて銀座のバアをよして、踊子になつた。このはうが、いくらか余計お金がとれるからである。そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめてゐた高野さちよが、しよんぼり枕もとに坐つてゐた。
「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝てゐる数枝の顔をぴたとはさんだ。
 数枝には、何もかもわかつた。
「ばかなことばかりして。」さう言ひながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかつたやうにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
 さちよも、いそいそ襟巻をはづして、
「あたし買つて来よう。数枝は、つくだ煮だつたね。海老のつくだ煮買つて来てあげる。」
 出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねつて、ごはんの鍋をのせ、ふたたび蒲団の中にもぐり込んだ。
 さうして、その日から、さちよの寄棲生活がはじまつた。年の瀬、お正月、これといふいいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まつくらい部屋で寝ながら話した。
「さちよの伯父さんは、でも、いいひとだと思ふよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だつて、みんな、深い傷を背負つて、そ知らぬふりして生きてゐるのだ。いいなあ。なかなかわかつた人ぢやないか。あたしは、惚れたね。」ねむさうな声でさう言つて、数枝は、しづかに寝返りを打つた。
「かへれつていふの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまつて、心細げに反問した。
「まあね。」数枝は大人びた口調で言つて、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もつとわるい。婦女誘拐罪。咎人《とがにん》だよ、あれは。ろくなことを、しやしない。要らないことを、そそのかして、さうしてまたのこのこ、平気でここへ押しかけて来て、まるで恩人か何かのやうに、あの、きざな口のきき様《やう》つたら。どこまで、しよつてるのか、判りやしない。阿呆や。あの眼つきを、ごらんよ。どうしたつて、ふつうぢやないからね。」
 さちよは、くすくす笑つた。
 数枝も、こらへ切れず笑つてしまつて、それ
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