人は、その面《めん》のような端正の顔に、ちらとあいそ笑いを浮べて、お辞儀をした。
 そのまま、乙彦は外へ出た。ステッキを振って日比谷のほうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かった。はき馴れぬフェルト草履《ぞうり》で、歩きにくいように見えた。日比谷。すきやばし。尾張町。
 こんどはステッキをずるずる引きずって、銀座を歩いた。何も見なかった。ぼんやり水平線を見ているような眼差《まなざし》で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらわれたように、よろめき、資生堂へはいった。資生堂のなかには、もう灯がともっていて、ほの温かった。熱いコーヒーを、ゆっくりのんだ。サンドイッチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
 日が暮れた。
 こんどはステッキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄った。
「いらっしゃい。」
 隅のソファに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆ったが、はっと気を取り直して顔をしゃんと挙げ、
「ウイスキイ。」と低く呟《つぶや》くように言って、すこし笑った。
「ウイスキイは、」
「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」
 六杯、続け様《ざま》に、のんだ。

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