ったけれども、それは聞き容《い》れられなかった。ぜひ今日中に五枚でも十枚でも書いてくれなければ困る、と言う。私も、いやそれは困る、と言う。
「いかがでしょう。これから、一緒にお酒を飲んで、あなたのおっしゃることを私が書きます。」
酒の誘惑には私は極度にもろかった。
二人で出て、かねて私の馴染《なじみ》のおでんやに行き、亭主に二階の静かな部屋を貸してもらうように頼んだが、あいにくその日は六月の一日で、その日から料理屋が全部、自粛休業とかをする事になっているのだそうで、どうもお座敷を貸すのはまずい、という亭主の返辞で、それならば、君のところに前から手持のお酒で売れ残ったものがないか、それをゆずって貰《もら》いたい、と私は言い、亭主から日本酒を一升売ってもらって、私たち二人は何のあてどもなく、一升瓶《いっしょうびん》をさげて初夏の郊外を歩き廻った。
ふと、思いついて、あのひとのお宅のほうへ歩いて行った。私はそれまで、そのお宅の前を歩いてみた事はしばしばあったが、まだそのお宅へはいってみたことは無かったのだ。ほかのところで逢ってばかりいたのである。
そのお宅は、かなり広く、家族も少いし
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