った。
 いつも夢の中で現れる妻が、
「あなたは、正義ということをご存じ?」
 と、からかうような口調では無く、私を信頼し切っているような口調で尋ねた。
 私は、答えなかった。
「あなたは、男らしさというものをご存じ?」
 私は、答えなかった。
「あなたは、清潔ということをご存じ?」
 私は、答えなかった。
「あなたは、愛ということをご存じ?」
 私は、答えなかった。
 やはり、あの湖のほとりの草原に寝ころんでいたのであるが、私は寝ころびながら涙を流した。
 すると、鳥が一羽飛んで来た。その鳥は、蝙蝠《こうもり》に似ていたが、片方の翼の長さだけでも三|米《メートル》ちかく、そうして、その翼をすこしも動かさず、グライダのように音も無く私たちの上、二米くらい上を、すれすれに飛んで行って、そのとき、鴉《からす》の鳴くような声でこう言った。
「ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。」
 私は、それ以来、人間はこの現実の世界と、それから、もうひとつの睡眠の中の夢の世界と、二つの世界に於いて生活しているものであって、この二つの生活の体験の錯雑し、混迷しているところに、謂《
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