きい眼でじつと見つめるぢやないか。おどろいたね。君、無智ゆゑに信じるのか、それとも利發ゆゑに信じるのか。ひとつ、信じるといふ題目で小説でも書かうかなあ。AがBを信じてゐる。そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て來て、手を變へ品を變へ、さまざまにBを中傷する。――それから、――AはやつぱりBを信じてゐる。疑はない。てんから疑はない。安心してゐる。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。ははん。」へんにはしやいでゐた。私は、彼の言葉をそのままに聞いてゐるだけで彼の胸のうちをべつだん何も忖度してはゐないのだといふところをすぐにも見せなければいけないと思つたから、
「その小説は面白さうですね。書いてみたら?」
 できるだけ餘念なささうな口調で言つて、前方の西郷隆盛の銅像をぼんやり眺めた。馬場は助かつたやうであつた。いつもの不機嫌さうな表情を、圓滑に、取り戻すことができたのである。
「ところが、――僕には小説が書けないのだ。君は怪談を好むたちだね?」
「ええ、好きですよ。なによりも、怪談がいちばん僕の空想力を刺激するやうです。」
「こんな怪談はどうだ。」馬場は下唇をちろと舐めた。「知性の極といふものは、たしかにある。身の毛もよだつ無間奈落だ。こいつをちらとでも覗いたら最後、ひとは一こともものを言へなくなる。筆を執つても原稿用紙の隅に自分の似顏畫を落書したりなどするだけで、一字も書けない。それでゐて、そのひとは世にも恐ろしい或るひとつの小説をこつそり企てる。企てた、とたんに、世界ぢゆうの小説がにはかに退屈でしらじらしくなつて來るのだ。それはほんたうに、おそろしい小説だ。たとへば、帽子をあみだにかぶつても氣になるし、まぶかにかぶつても落ちつかないし、ひと思ひに脱いでみてもいよいよ變だといふ場合、ひとはどこで位置の定着を得るかといふやうな自意識過剩の統一の問題などに對しても、この小説は碁盤のうへに置かれた碁石のやうな涼しい解決を與へてゐる。涼しい解決? さうぢやない。無風。カツトグラス。白骨。そんな工合ひの冴え冴えした解決だ。いや、さうぢやない。どんな形容詞もない、ただの、『解決』だ。そんな小説はたしかにある。けれども人は、ひとたびこの小説を企てたその日から、みるみる痩せおとろへ、はては發狂するか自殺するか、もしくは唖者《おし》になつてしまふのだ。君、ラデ
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