イゲは自殺したんだつてね。コクトオは氣がちがひさうになつて日がな一日オピアムばかりやつてるさうだし、ヴアレリイは十年間、唖者《おし》になつた。このたつたひとつの小説をめぐつて、日本なんかでも一時ずゐぶん悲慘な犧牲者が出たものだ。現に、君、――」「おい、おい。」といふ嗄れた呼び聲が馬場の物語の邪魔をした。ぎよつとして振りむくと、馬場の右脇にコバルト色の學生服を着た背のきはめてひくい若い男がひつそり立つてゐた。
「おそいぞ。」馬場は怒つてゐるやうな口調で言つた。「おい、この帝大生が佐野次郎左衞門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの畫かきさ。」
佐竹と私とは苦笑しながら輕く目禮を交した。佐竹の顏は肌理も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであつた。瞳の焦點がさだかでなく、硝子製の眼玉のやうで、鼻は象牙細工のやうに冷く、鼻筋が劍のやうにするどかつた。眉は柳の葉のやうに細長く、うすい唇は苺のやうに赤かつた。そんなに絢爛たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであつた。身長五尺に滿たないくらゐ、痩せた小さい兩の掌は蜥蜴のそれを思ひ出させた。佐竹は立つたまま、老人のやうに生氣のない聲でぼそぼそ私に話しかけたのである。
「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭つたものですねえ。なかなかやると思つてゐますよ。」私はむつとして、佐竹のまぶしいほど白い顏をもいちど見直した。箱のやうに無表情であつた。
馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかふのはやめろ。ひとを平氣でからかふのは、卑劣な心情の證據だ。罵るなら、ちやんと罵るがいい。」
「からかつてやしないよ。」しづかにさう應へて、胸のポケツトからむらさき色のハンケチをとり出し、頸のまはりの汗をのろのろ拭きはじめた。
「あああ。」馬場は溜息ついて縁臺にごろんと寢ころがつた。「おめえは會話の語尾に、ねえ、とか、よ、とかをつけなければものを言へないのか。その語尾の感嘆詞みたいなものだけは、よせ。皮膚にべとつくやうでかなはんのだ。」私もそれは同じ思ひであつた。
佐竹はハンケチをていねいに疊んで胸のポケツトにしまひこみながら、よそごとのやうにして呟いた。「朝顏みたいなつらをしやがつて、と來るんぢやないかね?」
馬場はそつと起きあがり、すこし聲をはげまして言つた。「おめえとはここで口論したくねえんだ。
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