日本では偉い作家が死んで、そのあとで上梓《じょうし》する全集へ、必ず書簡集なるものが一冊か二冊、添えられてある。書簡のほうが、作品よりずっと多量な全集さえ、あったような気がするけれど、そんなのには又、特殊な事情があったのかも知れない。
 作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯《たわむ》れにものした絵集一巻、上梓して内輪《うちわ》の友人親戚間にわけてやるなど、これはまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容喙《ようかい》すべき事がらでない。
 私は一読者の立場として、たとえばチエホフの読者として、彼の書簡集から何ひとつ発見しなかった。私には、彼の作品「鴎《かもめ》」の中のトリゴーリンの独白を書簡集のあちこちの隅からかすかに聴取できただけのことであった。
 読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々としているかも知れないが、彼等がそこでいみじくも、掴《つか》まされたものはこの作家もまた一日に三度三度のめしを食べた、あの作家もま
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