た房事を好んだ、等々の平俗な生活記録にすぎない。すでに判り切ったことである。それこそ、言うさえ野暮《やぼ》な話である。それにもかかわらず、読者は、一度掴んだ鬼の首を離そうともせず、ゲエテはどうも梅毒らしい、プルウストだって出版屋には三拝九拝だったじゃないか、孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集は、文学の初歩的なるものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり廻るのである。曰《いわ》く、将を射んと欲せば馬を射よ。文学論は更に聞かれず、行くところ行くところ、すべて人物|月旦《げったん》はなやかである。
 作家たるもの、またこの現象を黙視し得ず、作品は二の次、もっぱらおのれの書簡集作成にいそがしく、十年来の親友に送る書簡にも、袴《はかま》をつけ扇子《せんす》を持って、一字一句、活字になったときの字づらの効果を考慮し、他人が覘《のぞ》いて読んでも判るよう文章にいちいち要《い》らざる註釈を書き加えて、そのわずらわしさ、ために作品らしき作品一つも書けず、いたずらに手紙上手の名のみ高い、そういうひとさえ出て来るわけではないか。
 書簡集に用いるお金が
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