自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。云々。」
露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われているけれども、それは露伴の五重塔や一口剣《いっこうけん》などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。
王勝間《たまかつま》にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思ふは、古の神社の盛りなりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社どもはいみじくも衰へて荒れたるを見なれて、古く尊き神社は本よりかくあるものと心得たるからのひがごとなり。」
けれども私は、老人に就《つ》いて感心したことがひとつある。黄昏《たそがれ》の銭湯の、流し場の隅《すみ》でひとりこそこそやっている老人があった。観ると、そまつな日本|剃刀《かみそり》で鬚《ひげ》を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸《うな》るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積《たいせき》には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思
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