い狂う、あの無量無数の言葉の洪水が、今宵は、また、なんとしたことか、雪のまったく降りやんでしまった空のように、ただ、からっとしていて、私ひとりのこされ、いっそ石になりたいくらいの羞恥《しゅうち》の念でいたずらに輾転《てんてん》している。手も届かぬ遠くの空を飛んで居る水色の蝶を捕虫網で、やっとおさえて、二つ三つ、それはむなしい言葉であるのがわかっていながら、とにかく、掴《つか》んだ。
 夜の言葉。
「ダンテ、――ボオドレエル、――私。その線がふとい鋼鉄の直線のように思われた。その他は誰もない。」「死して、なおすすむ。」「長生をするために生きて居る。」「蹉跌《さてつ》の美。」「Fact だけを言う。私が夜に戸外を歩きまわると、からだにわるいのが痛快にからだにこたえて、よくわかるのだ。竹のステッキ。(近所のものはムチと呼んでいるのを、おれは知って居る。)これがないと、散歩の興味、半減。かならず、電柱を突き、樹木の幹を殴《なぐ》りつけ、足もとの草を薙《な》ぎ倒す。すぐ漁師まち。もう寝しずまっている。朝はやいのだから。泥の海。下駄《げた》のまま海にはいる。歯がみをして居る。死ぬことだけを考えてる。男ありて大声|叱咤《しった》、(だらしがねえぞ。しっかりしろ!)私つぶやいて曰《いわ》く、(君は、もっとだらしがなくて、心配だ。)船橋のまちには犬がうようよ居やがる。一匹一匹、私に吠える。芸者が黒い人力車に乗って私を追い越す。うすい幌《ほろ》の中でふりかえる。八月の末、よく観ると、いいのね、と皮膚のきたない芸者ふたりが私の噂をしていたと家人が銭湯で聞いて来て、(二十七八の芸者衆にきっと好かれる顔です。こんど、くにのお兄さまにお願いして、おめかけさんでもお置きになったら? ほんとうに。)と鏡台のまえに坐り、おしろいを、薄くつけながら言った。(もう一年、否、もう半年はやかったなら!)軒のひくい家の柱時計。それがぼんぼん鳴りはじめた。私は不具の左脚をひきずって走る。否、この男は逃げたのだ。精米屋《せいまいや》は骨折り、かせいで居る。全身を米の粉でまっしろにして、かれの妻と三人のおとこの鼻たれのために、帯と、めんこのために、努めて居る。私、(おれだって、いま、こう見えていても、げんざい精出して居るじゃないか。肩身のせまい思い、無し。)精米の機械の音。」「佐藤春夫曰く、悪趣味の極端。したがって
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