また、ある夜、私は、気の弱い女は父無児《ててなしご》を生むという言葉をふと思い出し、あんなに見えても、マツ子は、ひょっとしたら弱いのじゃないのかしらと気がかりになって、これは、ひとつ、マツ子に聞いてみようと思った。
「マツ子。おまえは、おまえのからだを大事と思っているか。」
マツ子は家人の手伝いをして、隣りの六畳の部屋でほどきものをしていたのだが、しばらく、水を打ったように、ひっそりなった。やがて、
「ええ。」
と答えた。
「そうか、よし。」私は寝返りを打って、また眼をつぶった。安心したのである。
このあいだ、私は、マツ子のいるまえで、煮えたぎっている鉄びんを家人のほうにむけて投げつけた。家人は、私のびんぼうな一友人にこっそりお金を送ろうとして手紙を書いているのを、私は見つけ、ぶんを越えた仕儀はよせ、と言った。家人は、これは私のへそくりですから、と平気な顔で答えた。私は、かっとなり、「おまえの気のままになってたまるか。」と言い、鉄びんを天井めがけて、力一ぱいに投げつけた。私はぐったりなって、籐椅子に寝ころび、マツ子を見た。マツ子は、鋏《はさみ》をにぎって立っていた。私を刺すつもりであったろうか。家人を刺すつもりであったろうか。私は、いつでも刺されていいのだから、見て見ぬふりをしていたが、家人は知らなかったようである。
マツ子のことについて、これ以上、書くのは、いやだ。書きたくないのだ。私はこの子をいのちかけて大切にして居る。
マツ子は、もう私の傍にいないのである。私が、家へ、かえしたのである。日が暮れたから。
夜が来た。私は眠らなければならないのだ。これでまる三日三晩、私はどのような手段をつくしても眠れず、そのくせ、眠たくて、終日うつらうつらしているのだ。このようなときには、私よりも、家人のほうが、まいってしまって、私のからだをお撫で下さい、きっと眠れると思います、と言って声たてて泣いたことがある。私は、それを、試みたが、だめであった。そのときの私の眼には、隣村の森ちかくの電燈の光が薊《あざみ》の花に似ていたのを記憶して居る。
私は、いま、眠らなければいけない。けれども、書きかけた創作を、結ばなければいけない。私は寝床の枕元に原稿用紙と BBB の鉛筆とを、そなえて寝た。
毎夜、毎夜、万朶《ばんだ》の花のごとく、ひらひら私の眉間《みけん》のあたりで舞
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