えていつてそこでひたすらに神を想ふやうになる。こんな時には自分の思想はすつかり自然と交融してゐるのを覺える。或は亦斯んなこともある。いくつか連つてゐる寺寺の境内をそれからそれへと歩き廻つて、と或る御堂のおくの讀經の諧音に耳をすましたり、また禪庵の柱に懸けてある偈の章句を考へたり、超俗的な※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]間の額面の文字にひたと見入つたりしながら、自分といふもの、自分の思想といふものを全く忘れてしまつたやうになることがある。こんなにして生活する僕にとつて迷執は常に離れがたい原罪《ウアジユンデ》である。思想上では變説改論まことに恆なく、實際どれだけが自分にとつて不可疑的の部分か解らなくなつて情無くさへなる。しかし其等のすべての時に亙り、ふしぎに君の詩は僕にとつて眞實である。僕の氣分などはまるでふはふはして好惡の標準が全然の反對から反對へと動きつつあるにも拘らず君の詩はいつも僕に親昵感を與へるものである。それは實に君の詩の奇蹟だ。
山村君
僕の神祕的象徴主義が元來、大乘佛教の哲理からきたものだといふことは君も知つてゐる。僕は始めプラグマチズムの現實哲學に執着して
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