から》を賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰《ヨハネ》伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行《な》さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞《むくい》は斯くも遠大無窮である。
義《ただし》き事のために責めらるる者は福《さいわい》なり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有《もの》なれば也、現世《このよ》に在りては義のために責められ、来世《つぎのよ》に在りては義のために誉めらる、単《ただ》に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義[#「天国と其義」に傍点]のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害《せめ》らる、栄光此上なしである、我等もし彼[#「彼」は太字]と共に死なば彼[#「彼」は太字]と共に生くべし、我等もし彼[#「彼」は太字]と共に忍ばば彼[#「彼」は太字]と共に王たるべし(提摩
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