二十章三十四節―三十八節。
エルサレムと世界の最後。終末に関する大説教である、二十一章七節より三十六節まで。
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勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充溢《みちあふ》れて居る、即ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書なることを、来世抜きの聖書は味なき意義なき書となるのである、「我等主の懼るべきを知るが故に人に勧む」とパウロは言うて居る(哥林多後五の十一)、「懼《おそ》るべき」とは此場合に於ては確かに終末《おわり》の審判の懼るべきを指して言うたのである(十節を見よ)、慕うべくして又懼るべき来世を前に控えて聖書殊に新約聖書は書かれたのである、故に読む者も亦同じ希望と恐怖とを以て読まなければならない、然らざれば聖書は其意味を読者に通じないのである。
然るに今時《いま》の聖書研究は如何? 今時の聖書研究は大抵は来世抜き[#「来世抜き」に傍点]の研究である、所謂《いわゆる》現代人が嫌う者にして来世問題の如きはない、殊に来世に於ける神の裁判と聞ては彼等が忌み嫌って止まざる所である、故に彼等は聖書を解釈するに方て成るべく之れを倫理的に解釈せんとする、来世に関する聖書の記事は之れを心霊化《スピリチュアライズ》せんとする、「心の貧しき者は福《さいわい》なり、天国は即ち其人の有《もの》なれば也」とあれば、天国とは人の心の福なる状態であると云う、人類の審判に関わるイエスの大説教(馬太伝二十四章・馬可《マルコ》伝十三章・路加伝二十一章)は是猶太思想の遺物なりと称して、之を以てイエスの熱心を賞揚すると同時に彼の思想の未だ猶太思想の旧套を脱卻する能わざりしを憐む、彼等は神の愛を説く、其怒を言わない、「それ神の震怒《いかり》は不義をもて真理を抑うる人々に向って天より顕わる」とのパウロの言の如きは彼等の受納《うけ》ざる所である(羅馬書一章十八節)、斯して彼等は―是等の現代人等は―浅く民の傷を癒して平康《やすき》なき所に平康平康《やすしやすし》と言うのである、彼等は自ら神の寵児なりと信じ、来世の裁判の如きは決して彼等に臨まざることと信ずるのである、然し乍ら基督者《クリスチャン》とは素々是等現代人の如き者ではなかった、彼等は神の愛を知る前に
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