この子のそばにいたいのですけれど、わたしはもう二|度《ど》と人間《にんげん》の世界《せかい》に帰《かえ》ることのできない身《み》になりました。これを形見《かたみ》に残《のこ》しておきますから、いつまでもわたしを忘《わす》れずにいて下《くだ》さい。」
こういって葛《くず》の葉《は》狐《ぎつね》は一|寸《すん》四|方《ほう》ぐらいの金《きん》の箱《はこ》と、水晶《すいしょう》のような透《す》き通《とお》った白い玉《たま》を保名《やすな》に渡《わた》しました。
「この箱《はこ》の中に入《はい》っているのは、竜宮《りゅうぐう》のふしぎな護符《ごふ》です。これを持《も》っていれば、天地《てんち》のことも人間界《にんげんかい》のことも残《のこ》らず目に見《み》るように知《し》ることができます。それからこの玉《たま》を耳《みみ》に当《あ》てれば、鳥獣《とりけもの》の言葉《ことば》でも、草木《くさき》や石《いし》ころの言葉《ことば》でも、手に取《と》るように分《わ》かります。この二つの宝物《たからもの》を子供《こども》にやって、日本《にっぽん》一の賢《かしこ》い人にして下《くだ》さい。」
といって、二つの品物《しなもの》を保名《やすな》に渡《わた》しますと、そのまますうっと狐《きつね》の姿《すがた》はやみの中に消《き》えてしまいました。
三
狐《きつね》のふしぎな宝物《たからもの》を授《さず》かったせいでしょうか、狐《きつね》の子供《こども》の阿倍《あべ》の童子《どうじ》は、並《なみ》の子供《こども》と違《ちが》って、生《う》まれつき大《たい》そう賢《かしこ》くて、八つになると、ずんずんむずかしい本《ほん》を読《よ》みはじめ、阿倍《あべ》の家《いえ》に昔《むかし》から伝《つた》わって、だれも読《よ》む者《もの》のなかった天文《てんもん》、数学《すうがく》の巻《ま》き物《もの》から、占《うらな》いや医学《いがく》の本《ほん》まで、何《なん》ということなしにみな読《よ》んでしまって、もう十三の年《とし》には、日本中《にっぽんじゅう》でだれもかなうもののないほどの学者《がくしゃ》になってしまいました。
するとある日のことでした。童子《どうじ》はいつものとおり一間《ひとま》に入《はい》って、天文《てんもん》の本《ほん》をしきりに読《よ》んでいますと、すぐ前《まえ》の庭《にわ》の柿《かき》の木に、からすが二|羽《わ》、かあかあいって飛《と》んで来《き》ました。そして何《なに》かがちゃがちゃおしゃべりをはじめました。何《なに》をからすはいっているのか知《し》らんと思《おも》って、童子《どうじ》は例《れい》のふしぎな玉《たま》を耳《みみ》に当《あ》てますと、このからすは東《ひがし》の方《ほう》から来《き》た関東《かんとう》のからすと、西《にし》の方《ほう》から来《き》た京都《きょうと》のからすでした。京都《きょうと》のからすは関東《かんとう》のからすに向《む》かって、このごろ都《みやこ》で見《み》て来《き》た話《はなし》をしました。
「都《みやこ》の御所《ごしょ》では、天子《てんし》さまが大病《たいびょう》で、大《たい》そうなさわぎをしているよ。お医者《いしゃ》というお医者《いしゃ》、行者《ぎょうじゃ》という行者《ぎょうじゃ》を集《あつ》めて、いろいろ手をつくして療治《りょうじ》をしたり、祈祷《きとう》をしたりしているが、一向《いっこう》にしるしが見《み》えない。それはそのはずさ、あれは病気《びょうき》ではないんだからなあ。だがわたしは知《し》っている。」
「じゃあどういうわけなんだね。」
と関東《かんとう》のからすはたずねました。
「それはこういうわけさ。このごろ御所《ごしょ》の建《た》て替《か》えをやって、天子《てんし》さまのお休《やす》みになる御殿《ごてん》の柱《はしら》を立《た》てた時《とき》に、大工《だいく》がそそっかしく、東北《うしとら》の隅《すみ》の柱《はしら》の下に蛇《へび》と蛙《かえる》を生《い》き埋《う》めにしてしまったのだ。それが土台石《どだいいし》の下で、今《いま》だに生《い》きていて、夜《よる》も昼《ひる》もにらみ合《あ》って戦《たたか》っている。蛇《へび》と蛙《かえる》がおこって吹《ふ》き出《だ》す息《いき》が炎《ほのお》になって、空《そら》まで立《た》ちのぼると、こんどは天《てん》が乱《みだ》れる。その勢《いきお》いで天子《てんし》さまの体《からだ》にお病《やまい》がおこるのだ。だからあの蛇《へび》と蛙《かえる》を追《お》い出《だ》してしまわないうちは、御病気《ごびょうき》は治《なお》りっこないのだよ。」
「ふん、それじゃあ人間《にんげん》になんか分《わ》からないはずだなあ。」
そこで京都《きょうと》
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