子供《こども》に見《み》られたことを、死《し》ぬほどはずかしくも、悲《かな》しくも思《おも》いました。
「もうどうしても、このままこうしていることはできない。」
 こう葛《くず》の葉《は》はいって、はらはらと涙《なみだ》をこぼしました。
 そういいながら、八|年《ねん》の間《あいだ》なれ親《した》しんだ保名《やすな》にも、子供《こども》にも、この住《すま》いにも、別《わか》れるのがこの上なくつらいことに思《おも》われました。さんざん泣《な》いたあとで、葛《くず》の葉《は》は立《た》ち上《あ》がって、そこの障子《しょうじ》の上に、
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「恋《こい》しくば
たずね来《き》てみよ、
和泉《いずみ》なる
しのだの森《もり》の
うらみ葛《くず》の葉《は》。」
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 とこう書《か》いて、またしばらく泣《な》きくずれました。そしてやっと思《おも》いきって立《た》ち上《あ》がると、またなごり惜《お》しそうに振《ふ》り返《かえ》り、振《ふ》り返《かえ》り、さんざん手間《てま》をとった後《あと》で、ふいとどこかへ出ていってしまいました。
 もう日が暮《く》れかけていました。保名《やすな》は子供《こども》を連《つ》れて畑《はたけ》から帰《かえ》って来《き》ました。母親《ははおや》の変《か》わった姿《すがた》を見《み》てびっくりした子供《こども》は、泣《な》きながら方々《ほうぼう》父親《ちちおや》のいる所《ところ》を探《さが》し歩《ある》いて、やっと見《み》つけると、今《いま》し方《がた》見《み》たふしぎを父親《ちちおや》に話《はな》したのです。保名《やすな》は驚《おどろ》いて、子供《こども》を連《つ》れて、あわてて帰《かえ》って来《き》てみると、とんからりこ、とんからりこ、いつもの機《はた》の音《おと》が聞《き》こえないで、うちの中はひっそりと、静《しず》まり返《かえ》っていました。うち中《じゅう》たずね回《まわ》っても、裏《うら》から表《おもて》へと探《さが》し回《まわ》っても、もうどこにも葛《くず》の葉《は》の姿《すがた》は見《み》えませんでした。そしてもう暮《く》れ方《がた》の薄明《うすあか》りの中に、くっきり白く浮《う》き出《だ》している障子《しょうじ》の上に、よく見《み》ると、字《じ》が書《か》いてありました。
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「恋《こい》しくば
たずね来《き》てみよ、
和泉《いずみ》なる
しのだの森《もり》の
うらみ葛《くず》の葉《は》。」
[#ここで字下げ終わり]
 母親《ははおや》がほんとうにいなくなったことを知《し》って、子供《こども》はどんなに悲《かな》しんだでしょう。
「かあちゃん、かあちゃん、どこへ行ったの。もうけっして悪《わる》いことはしませんから、早《はや》く帰《かえ》って来《き》て下《くだ》さい。」
 こういいながら、子供《こども》はいつまでもやみの中を探《さが》し回《まわ》っていました。さっき顔《かお》の変《か》わったのに驚《おどろ》いて声《こえ》を立《た》てたので、母親《ははおや》がおこって行ってしまったのだと思《おも》って、よけい悲《かな》しくなりました。狐《きつね》のかあさんでも、化《ば》け物《もの》のかあさんでもかまわない、どうしてもかあさんに会《あ》いたいといって、子供《こども》はききませんでした。
 あんまり子供《こども》が泣《な》くので、保名《やすな》は困《こま》って、子供《こども》の手を引《ひ》いて、当《あ》てどもなく真《ま》っ暗《くら》やみの森《もり》の中を探《さが》して歩《ある》きました。とうとう信田《しのだ》の森《もり》まで来《く》ると、とうに夜中《よなか》を過《す》ぎていました。けっして二|度《ど》と姿《すがた》を見《み》せまいと心《こころ》に誓《ちか》っていた葛《くず》の葉《は》も、子供《こども》の泣《な》き声《ごえ》にひかれて、もう一|度《ど》草《くさ》むらの中に姿《すがた》を現《あらわ》しました。子供《こども》はよろこんで、あわてて取《と》りすがろうとしましたが、いったん元《もと》の狐《きつね》に返《かえ》った葛《くず》の葉《は》は、もう元《もと》の人間《にんげん》の女ではありませんでした。
「わたしの体《からだ》にさわってはいけません。いったん元《もと》の住《す》みかに帰《かえ》っては、人間《にんげん》との縁《えん》は切《き》れてしまったのです。」
 と葛《くず》の葉《は》狐《ぎつね》はいいました。
「お前《まえ》が狐《きつね》であろうと何《なん》であろうと、子供《こども》のためにも、せめてこの子が十になるまででも、元《もと》のようにいっしょにいてくれないか。」
 と保名《やすな》はいいました。
「十まではおろか一生《いっしょう》でも、
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