《ゆき》が森《もり》をも谷《たに》をもうずめつくすようになりました。保名《やすな》はそのままいっしょに雪《ゆき》の中にうずめられて、森《もり》を出ることができないでいました。そのうち雪《ゆき》がそろそろ解《と》けはじめて、時々《ときどき》は森《もり》の中に小鳥《ことり》の声《こえ》が聞《き》こえるようになって、春《はる》が近《ちか》づいてきました。保名《やすな》は毎日《まいにち》親切《しんせつ》な娘《むすめ》の世話《せわ》になっているうち、だんだんうちのことを忘《わす》れるようになりました。それからまた一|年《ねん》たって、二|度《ど》めの春《はる》が訪《おとず》れてくる時分《じぶん》には、保名《やすな》と娘《むすめ》の間《あいだ》にかわいらしい男の子が一人《ひとり》生《う》まれていました。このごろでは保名《やすな》はすっかりもとの侍《さむらい》の身分《みぶん》を忘《わす》れて、朝《あさ》早《はや》くから日の暮《く》れるまで、家《いえ》のうしろの小《ちい》さな畑《はたけ》へ出《で》てはお百姓《ひゃくしょう》の仕事《しごと》をしていました。お上《かみ》さんの葛《くず》の葉《は》は、子供《こども》の世話《せわ》をする合間《あいま》には、機《はた》に向《む》かって、夫《おっと》や子供《こども》の着物《きもの》を織《お》っていました。夕方《ゆうがた》になると、保名《やすな》が畑《はたけ》から抜《ぬ》いて来《き》た新《あたら》しい野菜《やさい》や、仕事《しごと》の合間《あいま》に森《もり》で取《と》った小鳥《ことり》をぶら下《さ》げて帰《かえ》って来《き》ますと、葛《くず》の葉《は》は子供《こども》を抱《だ》いてにっこり笑《わら》いながら出て来《き》て、夫《おっと》を迎《むか》えました。
 こういう楽《たの》しい、平和《へいわ》な月日《つきひ》を送《おく》り迎《むか》えするうちに、今年《ことし》は子供《こども》がもう七つになりました。それはやはり野面《のづら》にはぎやすすきの咲《さ》き乱《みだ》れた秋《あき》の半《なか》ばのことでした。ある日いつものとおり保名《やすな》は畑《はたけ》に出て、葛《くず》の葉《は》は一人《ひとり》寂《さび》しく留守居《るすい》をしていました。お天気《てんき》がいいので子供《こども》も野《の》へとんぼを取《と》りに行ったまま、遊《あそ》びほおけていつまでも帰《かえ》って来《き》ませんでした。葛《くず》の葉《は》はいつものとおり機《はた》に向《む》かって、とんからりこ、とんからりこ、機《はた》を織《お》りながら、少《すこ》し疲《つか》れたので、手を休《やす》めて、うっとり庭《にわ》をながめました。もう薄《うす》れかけた秋《あき》の夕日《ゆうひ》の中に、白い菊《きく》の花《はな》がほのかな香《かお》りをたてていました。葛《くず》の葉《は》は何《なん》となくうるんだ寂《さび》しい気持《きも》ちになって、我《われ》を忘《わす》れてうっかりと魂《たましい》が抜《ぬ》け出《だ》したようになっていました。その時《とき》外《そと》から、
「かあちゃん、かあちゃん。」
 と呼《よ》びながら、遊《あそ》び疲《つか》れた子供《こども》が駆《か》けて帰《かえ》って来《き》ました。うっとりしていて、その声《こえ》にも気《き》がつかなかったとみえて、葛《くず》の葉《は》が返事《へんじ》をしないので、不思議《ふしぎ》に思《おも》って子供《こども》はそっと庭《にわ》に入《はい》ってみますと、いつものように機《はた》に向《む》かっている母親《ははおや》の姿《すがた》は見《み》えましたが、機《はた》を織《お》る手は休《やす》めて、機《はた》の上《うえ》につっぷしたまま、うとうとうたた寝《ね》をしていました。ふと見《み》るとその顔《かお》は、人間《にんげん》ではなくって、たしかに狐《きつね》の顔《かお》でした。子供《こども》はびっくりして、もう一|度《ど》見直《みなお》しましたが、やはりまぎれもない狐《きつね》の顔《かお》でした。子供《こども》は「きゃっ。」と、思《おも》わずけたたましいさけび声《ごえ》を上《あ》げたなり、あとをも見《み》ずに外《そと》へ駆《か》け出《だ》しました。
 子供《こども》のさけび声《ごえ》に、はっとして葛《くず》の葉《は》は目を覚《さ》ましました。そしてちょいとうたた寝《ね》をした間《ま》に、どういうことが起《お》こったか、残《のこ》らず知《し》ってしまいました。ほんとうにこの葛《くず》の葉《は》は人間《にんげん》の女ではなくって、あの時《とき》保名《やすな》に助《たす》けられた若《わか》い牝狐《めぎつね》だったのです。狐《きつね》は今日《きょう》までかくしていた自分《じぶん》の醜《みにく》い、ほんとうの姿《すがた》を
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