りました。暗《くら》い樹《き》の間《あいだ》から、吹《ふ》けば飛《と》びそうに薄《うす》い三日月《みかづき》がきらきらと光《ひか》って見《み》えていました。保名《やすな》はいつの間《ま》にか狐《きつね》の行方《ゆくえ》を見失《みうしな》ってしまって、心細《こころぼそ》く思《おも》いながら、森《もり》の中の道《みち》をとぼとぼと歩《ある》いて行きました。しばらく行くと、やがて森《もり》が尽《つ》きて、山と山との間《あいだ》の、谷《たに》あいのような所《ところ》へ出ました。体中《からだじゅう》にうけた傷《きず》がずきんずきん痛《いた》みますし、もう疲《つか》れきってのどが渇《かわ》いてたまりませんので、水《みず》があるかと思《おも》って谷《たに》へずんずん下《お》りていきますと、はるかの谷底《たにぞこ》に一《ひと》すじ、白い布《ぬの》をのべたような清水《しみず》が流《なが》れていて、月《つき》の光《ひかり》がほのかに当《あ》たっていました。その光《ひかり》の中にかすかに人らしい姿《すがた》が見《み》えたので、保名《やすな》はほっとして、痛《いた》む足《あし》をひきずりひきずり、岩角《いわかど》をたどって下《お》りて行きますと、それはこんな寂《さび》しい谷《たに》あいに似《に》もつかない十六七のかわいらしい少女《おとめ》が、谷川《たにがわ》で着物《きもの》を洗《あら》っているのでした。少女《おとめ》は保名《やすな》の姿《すがた》を見《み》るとびっくりして、危《あや》うく踏《ふ》まえていた岩《いわ》を踏《ふ》みはずしそうにしました。それから保名《やすな》の血《ち》だらけになった手足《てあし》と、ぼろぼろに裂《さ》けた着物《きもの》と、それに何《なに》よりも死人《しにん》のように青《あお》ざめた顔《かお》を見《み》ると、思《おも》わずあっとさけび声《ごえ》をたてました。保名《やすな》は気《き》の毒《どく》そうに、
「驚《おどろ》いてはいけません。わたしはけっして怪《あや》しいものではありません。大ぜいの悪者《わるもの》に追《お》われて、こんなにけがをしたのです。どうぞ水《みず》を一|杯《ぱい》飲《の》ませて下《くだ》さい。のどが渇《かわ》いて、苦《くる》しくってたまりません。」
 といいました。
 娘《むすめ》はそう聞《き》くと大《たい》そう気《き》の毒《どく》がって、谷川《たにがわ》の水《みず》をしゃくって、保名《やすな》に飲《の》ませてやりました。そしてそのみじめらしい様子《ようす》をつくづくとながめながら、
「まあ、そんな痛々《いたいた》しい御様子《ごようす》では、これからどこへいらっしゃろうといっても、途中《とちゅう》で歩《ある》けなくなるにきまっています。むさくるしい家《いえ》で、おいやでしょうけれど、ともかくわたくしのうちへいらしって、傷《きず》のお手当《てあて》をなさいまし。」
 といいました。
 保名《やすな》は大《たい》そうよろこんで、娘《むすめ》の後《あと》についてその家《いえ》へ行きました。それは山《やま》の陰《かげ》になった寂《さび》しい所《ところ》で、うちには娘《むすめ》のほかにだれも人はおりませんでした。この娘《むすめ》は親《おや》も兄弟《きょうだい》もない、ほんとうの一人《ひとり》ぼっちで、この寂《さび》しい森《もり》の奥《おく》に住《す》んでいるのでした。
 その明《あ》くる日|保名《やすな》は目が覚《さ》めてみると、昨日《きのう》うけた体《からだ》の傷《きず》が一晩《ひとばん》のうちにひどい熱《ねつ》をもって、はれ上《あ》がっていました。体中《からだじゅう》、もうそれは搾木《しめぎ》にかけられたようにぎりぎり痛《いた》んで、立《た》つことも座《すわ》ることもできません。そこで保名《やすな》は心《こころ》のうちには気《き》の毒《どく》に思《おも》いながら、毎日《まいにち》あおむけになって寝《ね》たまま、親切《しんせつ》な娘《むすめ》の世話《せわ》に体《からだ》をまかしておくほかはありませんでした。
 保名《やすな》の体《からだ》が元《もと》どおりになるにはなかなか手間《てま》がかかりました。娘《むすめ》はそれでも、毎日《まいにち》ちっとも飽《あ》きずに、親身《しんみ》の兄弟《きょうだい》の世話《せわ》をするように親切《しんせつ》に世話《せわ》をしました。保名《やすな》の体《からだ》がすっかりよくなって、立《た》って外《そと》へ出歩《である》くことができるようになった時分《じぶん》には、もうとうに秋《あき》は過《す》ぎて、冬《ふゆ》の半《なか》ばになりました。森《もり》の奥《おく》の住《す》まいには、毎日《まいにち》木枯《こが》らしが吹《ふ》いて、木《こ》の葉《は》も落《お》ちつくすと、やがて深《ふか》い雪
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