葛の葉狐
楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)摂津国《せっつのくに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|生《しょう》暮《く》らして

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     一

 むかし、摂津国《せっつのくに》の阿倍野《あべの》という所《ところ》に、阿倍《あべ》の保名《やすな》という侍《さむらい》が住《す》んでおりました。この人の何代《なんだい》か前《まえ》の先祖《せんぞ》は阿倍《あべ》の仲麻呂《なかまろ》という名高《なだか》い学者《がくしゃ》で、シナへ渡《わた》って、向《む》こうの学者《がくしゃ》たちの中に交《まじ》ってもちっとも引《ひ》けをとらなかった人です。それでシナの天子《てんし》さまが日本《にっぽん》へ還《かえ》すことを惜《お》しがって、むりやり引《ひ》き止《と》めたため、日本《にっぽん》へ帰《かえ》ることができないで、そのまま向《む》こうで、一|生《しょう》暮《く》らしてしまいました。仲麻呂《なかまろ》が死《し》んでからは、日本《にっぽん》に残《のこ》った子孫《しそん》も代々《だいだい》田舎《いなか》にうずもれて、田舎侍《いなかざむらい》になってしまいました。仲麻呂《なかまろ》の代《だい》から伝《つた》えた天文《てんもん》や数学《すうがく》のむずかしい書物《しょもつ》だけは家《いえ》に残《のこ》っていますが、だれもそれを読《よ》むものがないので、もう何《なん》百|年《ねん》という間《あいだ》、古《ふる》い箱《はこ》の中にしまい込《こ》まれたまま、虫《むし》の食《く》うにまかしてありました。保名《やすな》はそれを残念《ざんねん》なことに思《おも》って、どうかして先祖《せんぞ》の仲麻呂《なかまろ》のような学者《がくしゃ》になって、阿倍《あべ》の家《いえ》を興《おこ》したいと思《おも》いましたが、子供《こども》の時《とき》から馬《うま》に乗《の》ったり弓《ゆみ》を射《い》たりすることはよくできても、学問《がくもん》で身《み》を立《た》てることは思《おも》いもよらないので、せめてりっぱな子供《こども》を生《う》んで、その子を先祖《せんぞ》に負《ま》けないえらい学者《がくしゃ》に仕立《した》てたいと思《おも》い立《た》ちました。そこで、ついお隣《となり》の和泉国《いずみのくに》の信田《しのだ》の森《もり》の明神《みょうじん》のお社《やしろ》に月詣《つきまい》りをして、どうぞりっぱな子供《こども》を一人《ひとり》お授《さず》け下《くだ》さいましと、熱心《ねっしん》にお祈《いの》りをしていました。
 ある年《とし》の秋《あき》の半《なか》ばのことでした。保名《やすな》は五六|人《にん》の家来《けらい》を連《つ》れて、信田《しのだ》の明神《みょうじん》の参詣《さんけい》に出かけました。いつものとおりお祈《いの》りをすましてしまいますと、折《おり》からはぎやすすきの咲《さ》き乱《みだ》れた秋《あき》の野《の》の美《うつく》しい景色《けしき》をながめながら、保名主従《やすなしゅじゅう》はしばらくそこに休《やす》んで、幕張《まくば》りの中でお酒盛《さかも》りをはじめました。
 そのうちだんだん日が傾《かたむ》きかけて、短《みじか》い秋《あき》の日は暮《く》れそうになりました。保名主従《やすなしゅじゅう》はそろそろ帰《かえ》り支度《じたく》をはじめますと、ふと向《む》こうの森《もり》の奥《おく》で大ぜいわいわいさわぐ声《こえ》がしました。その中には太鼓《たいこ》だのほら貝《がい》だのの音《おと》も交《まじ》って、まるで戦争《せんそう》のようなさわぎが、だんだんとこちらの方《ほう》に近《ちか》づいて来《き》ました。主従《しゅじゅう》は何事《なにごと》がはじまったのかと思《おも》って思《おも》わず立《た》ちかけますと、その時《とき》すぐ前《まえ》の草叢《くさむら》の中で、「こんこん。」と悲《かな》しそうに鳴《な》く声《こえ》が聞《き》こえました。そして若《わか》い牝狐《めぎつね》が一|匹《ぴき》、中から風《かぜ》のように飛《と》んで来《き》ました。「おや。」という間《ま》もなく、狐《きつね》は保名《やすな》の幕《まく》の中に飛《と》び込《こ》んで来《き》ました。そして保名《やすな》の足《あし》の下で首《くび》をうなだれ、しっぽを振《ふ》って、さも悲《かな》しそうにまた鳴《な》きました。それは人に追《お》われて逃《に》げ場《ば》を失《うしな》った狐《きつね》が、ほかの慈悲《じひ》深《ぶか》い人間《にんげん》の助《たす》けを求《もと》めているのだということはすぐ分《わ》かりました。保名《やすな》は情《なさ》け深《ぶか》い侍《さ
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