せん。本名はカルロ・バルザニと申しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイタリアにおいででしたら、あの男についてご承知《しょうち》だったでしょう。それはほんの名前を言うだけで、どんな人物だということは残《のこ》らずおわかりになったでしょう。カルロ・バルザニと言えばそのころでいちばん有名な歌うたいでした。かれはナポリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ロンドン、それからパリでも歌いました。どこの大劇場《だいげきじょう》もたいした成功《せいこう》でした。やがてふとしたことからかれはりっぱな声が出なくなりました。もう歌うたいの中でいちばんえらい者でいることができなくなると、かれは自分の偉大《いだい》な名声に相応《そうおう》しない下等な劇場に出て、歌を歌って、だんだん評判《ひょうばん》をうすくすることをしませんでした。その代わりかれはまるっきり自分を世間の目からくらまして、全盛時代《ぜんせいじだい》にかれを知っていた人びとからかくれるようにしました。けれどもかれも生きなければなりません。かれはいろいろの職業《しょくぎょう》に手を出してみましたが、どれもうまくいきません。そこでと
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