《めいれい》するような調子で言った。「どろぼうは仲間《なかま》をはずれて、すみに行かなければならんぞ。夕食なしにねむらなければならんぞ」
ゼルビノは席《せき》を去って、指さされたほうへすごすご出て行った。それでかれ草の積《つ》んである下にもぐりこんで、姿《すがた》が見えなくなったが、その下で悲しそうにくんくん泣《な》いている声が聞こえた。
老人《ろうじん》はそれからわたしにパンを一きれくれて、自分の分を食べながら、ジョリクールとカピとドルスに、小さく切って分けてやった。
どんなにわたしはバルブレンのおっかあのスープがこいしくなったろう。それにバターはなくっても、暖《あたた》かい炉《ろ》の火がどんなにいい心持ちであったろう。夜着の中に鼻をつっこんでねた小さな寝台《ねだい》がこいしいな。
もうすっかりくたびれきって、足は木ぐつですれて痛《いた》んだ。着物はぬれしょぼたれているので、冷《つめ》たくってからだがふるえた。夜中になってもねむるどころではなかった。
「歯をがたがた言わせているね。おまえ寒いか」と老人《ろうじん》が言った。
「ええ、少し」
わたしはかれが背嚢《はいのう》を開ける音を聞いた。
「わたしは着物もたんとないが、かわいたシャツにチョッキがある。これを着てまぐさの下にもぐっておいで。じきに暖《あたた》かになってねむられるよ」
でも老人《ろうじん》が言ったようにそうじき暖かにはならなかった。わたしは長いあいだわらのとこの上でごそごそしながら、苦しくってねむられなかった。もうこれから先はいつもこんなふうにくらすのだろうか。ざあざあ雨の降《ふ》る中を歩いて、寒さにふるえながら、物置《ものお》きの中にねて、夕食にはたった一きれの固《かた》パンを分けてもらうだけであろうか。スープもない。だれもかわいがってくれる者もない。だきしめてくれる者もない。バルブレンのおっかあももうないのだ。
わたしの心はまったく悲しかった。なみだが首を流れ落ちた。
そのときふと暖《あたた》かい息が顔の上にかかるように思った。
わたしは手を延《の》ばすと、カピのやわらかい毛が手にさわった。かれはそっと草の上を音のしないように歩いて、わたしの所へやって来たのだ。わたしのにおいを優《やさ》しくかぎ回る息が、わたしのほおにも髪《かみ》の毛《け》にもかかった。
この犬はなにをしようというのであろう。
やがてかれはわたしのすぐそばのわらの上に転《ころ》げて、それはごく静《しず》かにわたしの手をなめ始めた。
わたしもうれしくなって、わらのとこの上に半分起き返って、犬の首を両うでにかかえて、その冷《つめ》たい鼻にキッスした。かれはわずか息のつまったような泣《な》き声《ごえ》を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に預《あず》けて、じつとおとなしくしていた。
わたしはつかれも悲しみも忘《わす》れた。息苦しいのどがからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。
初舞台《はつぶたい》
そのあくる日は早く出発した。
空は青あおと晴れて、夜中のから風がぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りにもつれていた。ときどきカピが後足で立ち上がって、わたしの顔を見ては二、三度|続《つづ》けてほえた。かれの心持ちはわたしにはわかっていた。
「元気を出せ、しっかり、しっかり」
こう言っているのであった。
かれはりこうな犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の尾《お》のふり方にはたいていの人の舌《した》や口で言う以上《いじょう》の頓知《とんち》と能弁《のうべん》がふくまれていた。わたしとカピの間にはことばは要《い》らなかった。初《はじ》めての日からおたがいの心持ちはわかっていた。
わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、初《はじ》めて町を見るのはなにより楽しみであった。
でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の塔《とう》や古い建物《たてもの》などよりも、もっと気になるのはくつ屋の店であった。
老人《ろうじん》がやくそくをしたくぎを打ったくつのある店はどこだろう。
わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人は市場《いちば》の後ろの一けんの店にはいった。店の外に古い鉄砲《てっぽう》だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、さびたかぎだのがつるしてあった。
わたしたちは三段《だん》ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな部屋《へや》にはいった。
くぎを打ったくつなんぞを、どうしてこんな気味の悪い所で売っているだろう。
けれども老人《ろうじん》にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木ぐつの十倍《ばい》も重たい、くぎを打ったくつをはくことになった。うれしいな。
老人の情《なさ》けはそれだけではなかった。かれはわたしに水色ビロードの上着と、毛織《けお》りのズボンと、フェルトぼうしまで買ってくれた。かれのやくそくしただけの品は残《のこ》らずそろった。
まあ、麻《あさ》の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それにくつは。ぼうしは。わたしはたしかに世界じゅうでいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。ほんとうにこの老人《ろうじん》は世界じゅうでいちばんいい人でいちばん情《なさ》け深い人だと思われた。
もっともそのビロードは油じみていたし、毛織《けお》りのズボンはかなり破《やぶ》れていた。それにフェルトぼうしのフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。
ところで宿屋《やどや》に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは、老人《ろうじん》がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。
わたしは丸い目をしてかれの顔を見た。
「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」とかれは説明《せつめい》した。
わたしはいよいよびっくりしてしまった。
「わたしたちは芸人《げいにん》だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらのいなかの人間のようなふうをして歩いたら、だれが目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでもていさいを作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」
こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その晩《ばん》はもうイタリアの子どもになっていた。
ズボンはやっとひざまで届《とど》いた。老人《ろうじん》はくつ下にひもをぬいつけて、フェルトぼうしの上にはいっぱいに赤いリボンを結《むす》びつけた。それから毛糸の花でおかざりをした。
わたしはほかの人がどう思うかは知らないが、正直に言えば自分ながらなかなかりっぱになったと思った。親友のカピも同じ考えであったから、しばらくわたしの顔をじっと見て、満足《まんぞく》したふうで前足を出した。
わたしはカピの賛成《さんせい》を得《え》たのでうれしかった。それというのが、わたしが着物を着かえている最中《さいちゅう》、例《れい》のジョリクールめが、わたしのまん前にべったりすわって、大げさな身ぶりで、さんざんひとのするとおりのまねをして、すっかり仕度ができると、今度はおしりに手を当て、首をちぢめて、あざけるように笑《わら》ったので、一方にそういう実意のある賛成者《さんせいしゃ》のできたのがよけいにうれしかったのである。
いったいさるが笑うか笑わないかということは、学問上の問題だそうだ。わたしは長いあいだジョリクールと仲《なか》よくくらしていたが、かれはたしかに笑った。しかもどうかすると人をばかにした笑《わら》い方《かた》をしたものだ。もちろんかれは人間のようには笑わなかった。けれどもなにかおもしろいことがあると、口を曲げて、目をくるくるやって、あのしっぽをす早く働《はたら》かせる。そうしてまっ黒な目はぴかぴか光って、火花がとび出すかと思われた。
「さあ仕度ができたら」と最後《さいご》にぼうしを頭にかぶると老人《ろうじん》が言った。「わたしたちはいよいよ仕事にかからなければならない。あしたは市《いち》の立つ日だから、おまえは初舞台《はつぶたい》を務《つと》めなければならない」
初舞台。初舞台とはどんなことだろう。
老人《ろうじん》はそこで、この初舞台というのは、三びきの犬とジョリクールを相手《あいて》に芝居《しばい》をすることだと教えてくれた。
「でもぼく、どうして芝居《しばい》をするのか知りません」と、わたしはおどおどしながらさけんだ。
「それだから、わたしが教えてあげようというのだよ。教わらなけりゃわかりゃしない。この動物どももいっしょうけんめい自分の役をけいこしたものだ。カピが後足で立つのでも、ドルスがなわとびの芸当《げいとう》をやるのでも、みんなけいこをして覚《おぼ》えたのだ。ずいぶん骨《ほね》の折《お》れたことではあったが、その代わりご覧《らん》、あのとおりかしこくなっている。おまえも、これからいろいろの役を覚えるためにはよほど勉強が要《い》る。とにかく仕事にかかろう」
これまでわたしは仕事といえば、畑にくわを入れるとか、石を切るとか、木をかるとかいうほかにはないように思っていた。
「さてわたしたちのやる狂言《きょうげん》は、『ジョリクール氏《し》の家来、一名とんだあほうの取りちがえ』というのだ。それはこういう筋《すじ》だ。ジョリクール氏はこれまで一人家来を使っていた。それはカピという名前で、ジョリクール氏はこの家来に満足《まんぞく》していたのだが、年を取ったのでひまを取ろうとする。それでカピは主人にひまを取るまえに、代わりの家来を見つけるやくそくをする。さてその後がまの家来というのは、犬ではなくって子どもなのだ。ルミと名乗るいなかの子どもなのだ」
「やあ、ぼくと同じ名前の……」
「いや、同じ名前ではない、それがおまえなんだ。おまえはジョリクール氏《し》の所へ奉公口《ほうこうぐち》を探《さが》しにいなかから出て来たのだ」
「おさるに家来はないでしょう」
「そこが芝居《しばい》だよ。さておまえはいきなり村からとび出して来た。それでおまえの新しい主人はおまえをあほうだと思う」
「おお、ぼく、そんなこといやです」
「人が笑《わら》いさえすれば、そんなことはどうでもいいじゃないか。さておまえは初《はじ》めてこのだんなの所へ家来になってやって来た。そして食事のテーブルごしらえを言いつけられる。それ、ちょうどそこに、芝居《しばい》に使うテーブルがある。さあ、仕度におかかり」
このテーブルの上には、おさらに、コップに、ナイフが一本、フォークが一本、白いテーブルかけが一|枚《まい》置《お》いてあった。
どうしてこれだけのものをならべようか。
わたしはそれを考えて、両手をつき出してテーブルによっかかって、ぽかんと口を開けたまま、なにから手をつけていいか困っていると、親方は両手を打って、腹《はら》をかかえて笑《わら》いだした。
「うまいうまい。それこそ本物だ」とかれはさけんだ。「わたしが先《せん》に使っていた子どもは狡猾《こうかつ》そうな顔つきで、どうだ、あほうのまねはうまかろうと言わないばかりであった。おまえのはそれがいかにも自然《しぜん》でい
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