は一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。
「おまえは好《す》いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩《おん》を忘《わす》れてはならないぞ」
 そのあとでかれはいつも言い足した。
「だがしかたがなかったのだ」
 こう言う親方のことばを、初《はじ》めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人《ふじん》がそばへ置《お》きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。
 親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確《たし》かであった。そのうえこのことばの中には後悔《こうかい》に似《に》た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを残《のこ》しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。
 でもなぜかれがミリガン夫人《ふじん》の申し出を承知《しょうち》することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた
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