が、ささっているんだ』
『その学生は――』
『それは、その妹と一緒に、厳重に調べられたんだが、いくら叩いても埃《ほこり》一つでない、それに、そのグループが、そんな兇器は見たこともない、というんで、とうとうものにならなかったんだ』
『ふーん、……最初の学生が行った時は、既に死んでいて、而《しか》もその学生は嫌疑者にならぬ、というんだね』
『そうだ――』
『ふーん、……で、君はどう思うんだい』
『僕――にもわからないけど、ただその場所で妙な男を見たんだよ、あの山鹿十介だ』
『山鹿? ああそうか、いつか、君がひどい眼に会ったという――』
『そうだ、彼奴《あいつ》だよ』
『傍《そば》にいたんか』
『いや、二十|間《けん》ばかり離れていた……』
『じゃ、駄目じゃないか』
『うん、でも、なんだか彼奴なら遣《や》りそうな気がするんだ――僕があんまりいい感じを持っていないせいかも知れないがね――その山鹿が飛んで来て、お節介にも「どうしました」なんて彼女を抱き起したりしてね。どうも怪しい様な気が、「感じ」が、するんだよ』
『でも君、その山鹿が抱き起す前に、学生が脈がないといったんだろう』
『うん』
『心細いね、「感じ」だけでは証拠にならんじゃないか』
『そりゃそうさ、――そういう君だって解らんのだろう』
『いや、僕は現場を見ていないからね』
『ずるいぞ、現場を見てたって、それ以上わかるもんか』
『ふん、それは鷺太郎君のいうように山鹿というのが怪しいな……』
 婦長に患者の処置を指図しながら、黙って聞ていた畔柳博士が、ごくんとお茶をのみ乍《なが》ら、いった。
『でも、その山鹿という男が、近づく前に、既に死んでいたんじゃないですか』
 春生は、不服気に畔柳博士の方を振向いた。
『そうさ、山鹿がそばに行った時は、死んでいたんだよ。その娘は毒殺されたんだ、とは考えられないかい。――その事件が起る前に、山鹿がその娘にある方法で、例えば口紅に毒を塗っておくとか、泳いでいるそばに行って、あやまって水吹《しぶき》をかけたようにして毒を含ませてもいい、兎に角、毒を与えたんだ。そうすれば、その娘は気持が悪くなって、砂に寝て、それっきりになるのは当然だ』
『じゃ、なぜまんまと殺したのに、尚も匕首なんかを使ったんですか――、どういう風に使ったんですか』
 春生は尚も、訊きかけた。
『それは、一見不可能のような犯罪にして、人の眼を欺くつもりか、それともその人間が極悪非道な奴で、直接突きさしたい慾望を持っていたかも知れない、おそらくはその両方の原因からだろう――。
 二十間もはなれて、その間に、大勢の人が居《い》ながら、すぐ傍にいた学生を除いては、第一に馳《かけ》つけて来た、ということは、その娘にずーっと注意していた、ということの証拠になると思うね。二十間も先にいて、その傍の人さえ、まだ何が起ったのか知らんうちに、飛んで来て「どうしました」なんて抱き起す――というのは、前からそれがなんだか知っている人間でなければ出来んよ……。刺した方法? それは簡単さ、「どうしました」といって抱き起し乍《なが》ら、素早く胸に匕首《あいくち》を打込むこと位、計画的にやればわけはない。そして自分で、「あっ――」と驚いてみせれば効果は満点だ。
 生身《なまみ》に匕首を突刺されて、叫び声一つたてぬ筈がない、これはその時すでに完全に死んでいた証拠さ、それには一寸毒殺以外にない』
 鷺太郎と春生は、この明快な解答に、
『ああ、そうか――』
 と驚いたきり、一言もなかった。春生は負《まけ》おしみのように、
『毒殺とは医者らしく思いついたもんだ』
 と、聴えぬように呟《つぶや》いたが、それ以外、このハッキリした解答に、異論を挟む余地がなかった。
『どんな方法で、何を与えたか、それは犯人に訊くのが一番近道だろうね』
 博士はそういうと、にこにこと事もなげに笑っていた。
 鷺太郎は、その厚い金縁《きんぶち》眼鏡の輝きを、いつになく光々《こうごう》しく感じながら、自分の「直感」を証明してくれた畔柳博士を仰ぎ見た。
『じゃ警察へ電話しましょうか――』
 鷺太郎が腰を浮かすと、
『まち給え――』
 春生が止めた。
『まち給え、も一つ、こんどの事件を話してくれたまえ、同一人の犯行と思われる今夜の事件に、その山鹿が無関係となったら、或は前の事件も彼ではなかったかも知れないじゃないか。周章《あわて》て訴える必要はないよ』
『いや、今夜の事件も、山鹿に違いない。僕は慥《たしか》に彼奴《やつ》を見たんだ』
『ふーん、じゃそれを警察に隠したのかい」
『隠した、という訳ではないけど、一寸、不審な点があるんでね』
『そら見給え、どんなことだ』
『いや、僕があの山鹿の家まで行くと、その門の中から二人連れが出て来たんだ。暗かったんでハッキリは解《わか》らなかったけれど、うしろ姿で山鹿と女とだ、と思った。それがZ海岸で二人とも草叢に隠れて、次に僕が行った時は、山鹿らしい男の姿はなく、女だけが殺されていた、という訳さ』
『じゃ、山鹿は隠れていたんだろう』
『うん、警官もそういったよ。だが、草叢に殺されていた女すら、白服だったから見つけ出したんだから、矢ッ張り白服を着ていたもう一人の男が隠れていても、すぐ解る筈なんだがね。それに、見えなくなるばかりか、僕が知らせに行こうとする、向うの方から、のこのこやって来た男が、山鹿なんだ』
『変な話だな、白服を着ていたかい』
『いや、浴衣《ゆかた》がけに、釣竿をかついでいたよ、夜釣りに行くんだ、といってね』
『前の白服、というのは慥《たしか》に山鹿だったのかい』
『さあ、……山鹿の家《うち》から出て来たのは慥《たしか》なんだがね、なにしろ暗がりとうしろ姿なんでね』
『そろそろあやしくなって来たナ。然し、これはその山鹿らしい白服の男が消えてなくなったところに謎があるね。
 白服の男を山鹿として、それが女を殺し、なんらかの方法で姿を消して、家にとって[#「とって」に傍点]帰し、着かえてから又やって来た、という時間があるかい』
『ないね。その時間はたった二三分だった。山鹿の家まではそこから急いで片道十分はかかる――』
『ふーん』
 春生も黙ってしまったが、遉《さすが》の畔柳博士も、万能探偵ではないと見えて、こんどは黙々として鷺太郎の話ばかりを聞いていた。
 夏の夜だというのに、ひどく冷《ひや》っとする風が吹いて来た。もう、暁方《あけがた》が近いらしい。
 三人は顔を見合わすと、腫《はれ》ぼったい瞼《まぶた》を上げて、
『なんだかぼんやりして来た、一と寝入りして、ゆっくり考えよう……』
 と呟《つぶや》くようにいった春生の言葉に、黙って頷《うなず》いた。

      六

 翌日――。
 真夏の太陽は光々と輝いて、サナトリウムの全景は、まばゆいばかりの光線に満たされ、鷺太郎がベッドに寝ころんだ儘《まま》、ゆうべのことをあれこれと考えていると、ジーッ、ジーッと圧迫されるような油蝉《あぶらぜみ》の声が、あたり一面、降るように聴えていた。
 先程《さきほど》、春生が一泳ぎして来る、と行ったきり、なかなか帰って来なかった。春生も矢張りあの疑問が解けずにいるらしいのだ。
 畔柳副院長の姿も見えなかった。おそらく医局で診察に追われているのであろう。
 この暑い日盛《ひざか》りを、当てもなく歩いても仕様がないと思っていた鷺太郎は、結局一日をぽかんと暮してしまった。
 ただ、その間、あの殺人の事件は、早くも看護婦の間にも拡まったらしく、盛《さかん》に噂は聞くのだけれど、可怪《おか》しなことには、その殺された美少女の身元は勿論、名前さえも、杳《よう》として不明であったのだ。
 それは朝刊にも、又、早くも届けられた、インクの匂いのぷうんとする夕刊にも、不明とばかり報ぜられていた。
 それは実に不思議なことだった。
 あれほどの美少女が殺されながら、そして、新聞に写真まで出され、警察でも必死の活動をしているのであろうに、更にわからなかった。
 被害者の身許もわからない、ということは、今の捜査法では手のつけられぬ難物なのである。
 この豪華なK――海浜都市で行われた殺人の、その類《たぐい》まれなほどの断髪洋装の(その身なりから見て、中流以上の者であることは、想像されたが)美少女の身許が、まるで木の股から生れたものであるかのように、全く解らない、というのは実《じつ》もっておかしな話であった。而《しか》も、それはこの事件に終止符が打たれてしまってからも、遂《つい》にわからなかったのである――。
      ×
 ――軈《やが》て、日が暮れ、このSサナトリウムにも灯《ひ》がともった。
 鷺太郎は、この日一日位、焦燥を感じた日はなかった。このあいついで起った美少女殺人事件の下手人が、かつて自分をもペテンにかけた山鹿十介であることを、もう動かすことの出来ぬものであると、確《かた》く信じながらも、最後の一寸した躓《つまず》きのために、ハッキリと断言することが出来ないでいるのだ。
 そんなことを考えていると、
『やあ――』
 畔柳博士が這入って来た。
『一寸《ちょっと》、面白いものを見せますから一緒に来ませんか』
『何んですか……行くことは行きますが』
『実験ですよ、見て下さい私を――』
 そういわれてみると、博士はいつもとは違って白ワイシャツに白の半ズボンを穿《は》いていた。恰度《ちょうど》、あのゆうべみた白服の男と同じ支度《こしらえ》であったのだ。
 門を出ると、春生も白ズボンを穿いてまっていた。三人は黙々としてZ海岸の方に急いだ。
 間もなく、ゆうべの事件のあったそばまで来ると、
『鷺太郎君。ここでまっていてくれたまえ、私と春生君とが、ゆうべの二人のように草叢《くさむら》の中にはいって、私が消えてしまうから――』
『え――』
 鷺太郎が、呆《あ》ッ気《け》にとられている間《あいだ》に、もう畔柳博士は春生を連れて、漸《ようや》く濃くなって来た夕闇の中を、進んで行った。それは恰度、ゆうべの悪夢の復習のように、そっくりであった。
 二人は一寸立止ると、あの男女のように、小径を草叢の方にとった、と見る間に、もう姿は闇に溶け込んでしまった。
 そして、ぽかんとした鷺太郎が、一二分ばかりも待った時であろうか、跫音がしたと思うと、いきなり後《うしろ》から、ぽんと肩を叩かれた。
『あ、畔柳さん……』
 ギクンと振向くと、そこには、つい今まで白シャツを着ていた畔柳博士が、黒っぽいたて縞《じま》の浴衣《ゆかた》を着て、ニコニコしながら立っていた。
『どうだね鷺太郎君。僕が君の後方《うしろ》に廻ったのを知ってるかい――』
『いいえ、ちっとも気づかなかったですよ』
 鷺太郎はまだ目をぱちくりしていた。
『どうです……』
 春生も、崖を上って来た。
『やあ、大成功さ、やっぱり僕の睨《にら》んだ通りだよ。ゆうべの白服の男は山鹿だったんだ。――こういう訳さ、山鹿はあの草叢《くさむら》の中に浴衣や釣竿を隠して置いたんだ、そして計画通り兇行《きょうこう》を演じると、直《す》ぐさま――そら、斯《こ》ういう風に、白シャツと白パンツの上に浴衣を着て、あの草叢を磯べりづたいに君の後方に廻ったんだ。ね、こういう黒っぽいたて縞の浴衣なら、宛《まる》でカムフラージされたと同様だから少々の光線で識別がつかんよ、まして「白服だ」と思いこんでるんだからね。それに夜というもんは、上から下は見にくいもんだ、それに比較すれば下から上は、幾分《いくぶん》明るい空をバックにしているんで割合に見えるし――夜道で道に迷ったら跼《かが》んで見ろ、というのはこの辺を指した言葉だよ……、で山鹿が変装して帰ろうと上を仰ぐといつの間にか君がいるのに気がついた、で心配になったんで夜釣を装って君の様子を捜《さぐ》りに来たんだろうよ。ところが君は何も知らぬ様子なので安心したんだろうけど、でも君の出ように依《よ》っちゃ或《あるい》はあの女と同じことになったかも知れないぜ……』
『冗談いっちゃいけませんよ―
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