けれど、この殺人事件という重大な衝動の前では、思わず口かずを重ねてしまってから、この前といい、今度といい、フト思い出したように、口を噤んでしまって、わざとらしく白い眼で見合う二人であった。
      ×
 その夜、結局わかったことは、その兇器である匕首が、あの海岸開きの賑いの中で起った殺人に、使用されたものと、同種類のもので、全国どこの刃物屋にも、ざらに見られるものだ――ということだけであった。
 それに、自殺か他殺かも判然とせぬほど、物静かな死様《しにざま》だったけれど、それは、鷺太郎の慥《たしか》に二人連れであったという証言――、それに、その匕首には一つも指紋がないということで(自殺ならば手袋を持っていない彼女の指紋が残っているわけであろうから)漸《ようや》く「他殺」と決定された程であった。
 が――、あの「白服の男」は、何処へ消えてしまったのか。
 月はなくとも、満天の星で、白服を見失うほど暗くはなかった。それに鷺太郎は、それにのみ注意していたのだから――、でも、見えなかったのは事実だ。
 その男は、殺した女の死体の中に、溶けこんでしまったかのように、消え去ったのである。
 これには、警官も弱ったようだったが、結局、
『それは君、君だけがこの死体を発見して、僕のところへ知らせに来る間《ま》に、それまで草叢の暗がりに隠れていて、逃げてしまったんだろうよ――』
 鷺太郎は何か釈然とした気持になれなかったけれど、この場合、それ以外に一寸適当な解決は望めなかった。その釈然と出来なかった原因は、あの男がひどく山鹿十介に似た後姿をもっていた、ということと、その二人連れが、山鹿の別荘から出て来たということであったのは勿論《もちろん》だ。
 警官には、
『その二人は、どこかその辺の角から出て来たらしく、散歩の途中、ふと前の方を見ると、あの二人が、何か話しながら、歩いていたのです――』
 といって置いたけれど、何故《なぜ》そんなことをいってしまったのか、後になって、どうも思い出せなかった。けれど、それは山鹿を庇《かば》う、というのではなく、寧《むし》ろ何かの場合に、山鹿を打ち前倒《のめ》す為のキャスチングボートとして、ここでむざむざ喋《しゃべ》ってしまうことを惜しんだ気持が、無意識に働いたものらしかった。
 さて、漸《ようや》く御用済みとなった二人は、用意よく山鹿の持って来たカンテラを頼りに、帰路についた。
 山鹿は、あの「気がついてみると、前方を慥《たしか》に白服の男とあの少女との二人が歩いていた――」といった鷺太郎の言葉が、なぜかひどく気にかかると見えて、
『ね白藤さん、いったいその二人は、どの辺から来ましたかね……』
 とか、
『どんな様子でした、その男は――』
 とか、執拗《しつこ》いまでに、訊くのであった。鷺太郎は、
『いや――、さあ、どの辺だったかな……、でも二人いたのは慥《たしか》ですよ』
 と軽く、面倒臭げに答え乍《なが》ら、心の中では、
(やっぱり、山鹿の奴は怪しい……)
 と、一緒に、
(見ろ、その中《うち》、その高慢な鼻を、叩き折ってやる――)
 と歓声を挙げたい優越を感じていた。
 ――鷺太郎が相手にならないので、いつか山鹿も黙ってしまうと、二人は黙々として、細い絶入りそうなカンテラのゆれる灯影《ほかげ》を頼りに、夜路を歩きつづけていた。
 と、突然、
『あっ!』
 山鹿が、彼に似合《にあわ》ぬ魂消《たまげ》るような叫びをあげると、ガタンとカンテラを取り落した。
 はっ、とした瞬間、真暗になった路の上を、カンテラが、がらんがらんと転がる音がした。
 鷺太郎は、反射的に、生垣にぴったり身をすりつけて、構えながら息をこらした。……が、あたりには、なんの音もしなかった。
『どした――』
 呶鳴《どな》るようにいうと、
『が、蛾だ、蛾だ』
 その声は、この夏だというのに、想像も出来ぬほど、寒《さ》む寒《ざ》むとした嗄《しわが》れた声だった。
『蛾――?』
 鷺太郎は、唖気《あっけ》にとられてききかえした。
『なんだ、蛾がそんなに怕《こわ》いのか――』
 袂《たもと》をまさぐって、マッチを擦ると、転がったカンテラを拾って火を移した。
 その、ボーッと明るんだ光の中に、山鹿が、日頃の高慢と、皮肉とを、まるで忘れ果たように、赤ン坊の泣顔のような歪《ゆが》んだ顔をして、一生懸命、カンテラの火を慕って飛んで来たらしい蛾が、右手にとまったと見えて、まるで皮がむけてしまいはせぬか、と思われるほど、ごしごし、ごしごしと着物にこすりつけて拭いていた。
 暫らく鷺太郎は、その狂気|染《じみ》た山鹿十介の様子をぽかんと見詰めていたが、軈《やが》て、山鹿はほと溜息をつくと、尚もいまいましげに、右手の甲をカンテラに翳《かざ》しみてから、いくらか気まり悪そうに、干《ひ》からびた声でぼそぼそと、弁解じみた独りごとをいい出した。
『……どうもねえ、白藤さん、どうも僕はこの蛾とか蝶とかいうのが、世の中の何よりも恐《おそ》ろしくてねえ……だれだって、そら、人にもよるけれど蛇がこわいとか、蜘蛛《くも》が怕いとか、芋虫をみると気が遠くなるとかいうけれど、僕にとって、蛾や蝶ほど怕い、恐ろしいものはないんですよ……そうでしょう。誰にだって、怕いものはあるでしょう……』
『そうですね、僕――僕にとっちゃ、まあ、悪いことを悪いと思わぬ奴が一番こわいがなァ』
 山鹿は、その白藤の皮肉じみた言葉にも気づかぬように、可笑《おか》しなことには、まだ胸をどきどきと昂《たか》まらせながら、
『そうなんです。誰だって、心底から怕いものを一つは持っているんですけど、僕の場合、それが、あの蝶や蛾の類なんです。蛇や蜘蛛は、寧《むし》ろ、愛すべき小動物としか思いませんけど、これはどうも、そうはいきません、蛾――蛾――と思うと、もう不可《いけ》ないんです。斯《こ》う頭の芯がシーンと冷めたくなって、まるで瘧《おこり》のように、ぶるぶる顫《ふる》えてしまうんですからね、まったく、子供だましみたいな話なんですけど、僕はこの恐怖のために、どんなに苦しんだか知れません――一度はあのブルキ細工の蝶の玩具《おもちゃ》を買って来て、自分を馴らそうとしたんですけど、それでも駄目なんです。あのブルキの蝶が、極彩色のなんともいえぬ、いやな縞《しま》をもった大袈裟な羽根を、ばたばた、ばたばたと煽ると、もうどうにも我慢がならんのです。あの毒々しい色をもった鱗粉《りんぷん》というやつが、そこら一面にまき散らされるような気がしましてね。僕にとっちゃあの鱗粉という奴が、劇薬よりも恐ろしいんです。子供の時分、あの鱗粉が手についた為に、そこら一面、火ぶくれのようになって、痛みくるしんだ、苦い経験をもっていますよ。体質的にも、蝶や蛾は禁忌症《きんきしょう》なんで、それがこの強い恐怖の原因らしいんです……つまりは』
『へえ、そんなことがあるもんですかね、蛾は兎《と》も角《かく》としても、蝶々なんか実に綺麗な、可愛いいもんじゃないですか、尤《もっと》も掴《つか》めばそりゃ恰度《ちょうど》あの写し絵のように黄だの、黒だの縞《しま》が、手につきますけどね――』
『ああ、それが僕にはたまらんのです。
 ――あの猛獣のような毛に覆われた胴は、なんていったらいいでしょう。それにあのくるくると巻かれた口、あの口は慥《たしか》にこの世のものではありません。あれは悪魔の口です、恐ろしい因果を捲込《まきこ》んだ口なんですよ』
 そういうと、この歩き廻《まわ》って、ねとねとと汗の浮く真夏の夜だというのに、寒《さ》むそうに肩を窄《すぼ》めて、ぶるっと身顫《みぶる》いをすると、恰度《ちょうど》眼の前に来た分れみちのところで、鷺太郎から渡されたカンテラを、怖る怖る、つまむようにして受取り、「さよなら」ともいわずに、すたすたと暗《やみ》の中に消えてしまった。別れてから気がついたのだが、さっきの騒ぎで落してしまったものか、その山鹿のうしろ姿は、釣竿をかついでいなかった。

      五

 鷺太郎は、サナトリウムの通用口から這入《はい》って、医局の廊下を通ろうとすると、こんな夜更けだというのに、まだ電燈があかあかと点けられ、何か話しごえがしていた。
(何かあったのかな――)
 と思いながら、通りすぎようとすると、後《うしろ》から、
『白藤君――』
 と呼止められた。振返ると、そこには院長|沢村《さわむら》氏の息《そく》、学友の沢村|春生《はるお》が、にこにこ笑いながら立っていた。
『や、しばらく、どうしたい』
『どうした、じゃないよ。病人がこの夜更けにどこを迂路《うろ》ついてんだ、困るね――』
『はっははは、ここは居心地がいいから居てやるんだ、僕はもう病人じゃないぞ――』
『それがいかんのさ。治ったと思って遊びすぎると、直ぐぶりかえす――、殊《こと》に夜遊びなんか穏かでないぞ』
『冗、冗談いうなよ、変に気を廻すなんて、君こそ穏かでないよ』
『ははは、まあ、入りたまえ、僕も休暇をとったんで、見舞いがてら来たんだ、東京は熱気で沸騰してるよ』
 医局へ這入《はい》ると、副院長の畔柳《くろやなぎ》博士が廊下の会話を聞いていたと見えて、にやにやと笑っていた。
『今晩は――、どうかしたんですか』
『いや、三十三号の患者が喀血《やっ》たんでね、呼ばれて来たら、春生さんがあんた[#「あんた」に傍点]を待ってた訳さ』
『ほう、もういいんですか――』
『うん、落着いたようだ、――君もあんまり無理しない方がいいよ』
『そうじゃないんですよ、弱ったなあ、――僕のは重大事件でしてね、実は、又あのZ海岸で人殺しがあったんです』
『ほう、又――』
 畔柳博士も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、あれと同じ兇器で、同じように美しい少女なんです、殺《や》られたのは――。そこへまた私が通り合せて発見者という訳で、今まで色々訊かれましてね。
 ――でも、その死顔は実に綺麗だったですねえ、美少女が海岸の雑草の中に折れ朽ちたように寝、胸には匕首がささっているんですが、光線の不足で適当にぼかされて、少しも酷《むごた》らしくないんです。そして、そのつんと鼻の高い横顔を、蛍がぼーっ、ぼーっと蒼白い光りで照すんですが、それがまるで美しい絵を見ているような気がしましたよ』
『ほう、ばかに感心してるね、君のリーベのように綺麗だったかい』
『まさか、ははは』
『ふーん、で君は、それが誰にやられたのか知っているのかい――』
『いいや、知らんよ、警察でさえ、解らんのだもん――でもこの前のと関係があることは、素人にもわかる、というのは、いまいったように兇器が同一種類であり、手口も酷似しているからね、いつも、乳房の下を、心臓までまっすぐに一と突きだ』
『ふーん、君。僕にはじめから詳しく話してくれないか』
 春生は椅子を鳴らして、乗出して来た。
 鷺太郎は、
(そうそう、春生は探偵小説を愛読していたな――)
 と憶《おも》い出《だ》しながら、
『じゃ、こういう訳だ、最初の事件は、君ももうアウトライン位は新聞で知っているだろうけど、あの七月十日の海岸開きの日だ。
 Y海岸が河童共《かっぱども》のごった返している最中に、ええと、瑠美子、とかいったな、大井という実業家の長女だ、それが海岸で冷えた体を砂の上で暖めていて、気がついてみると、誰も知らぬ間に、胸に匕首を突刺されていた、という訳なんだ。――不思議なことには、当時、誰もその傍《そば》へはいなかったし、彼女は非常な美人だったから、注目の的になっていたから、これはハッキリいえることだ、又彼女には自殺するような動機も、原因もない。つまり殺されたということになるのだが、それでは一体どうして殺されたのか。
 最初に妹がいって見て、どうも様子が変なので、頓狂《とんきょう》な声を出したんだから、そばにいた学生が馳つけて、脈をみると、既に止っている。そしてワーッと集まった野次馬の前で、その俯伏《うつぶせ》になっていたのを起してみると、その今いった匕首
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