りが、頭にうかぶのであった――けれど、それは、あの美しくも酷《むご》たらしい一齣の場面だけであって、その原因とか、解決とかいった方には、その後《ご》報ぜられた新聞記事と同様、まるでブランクといってもよかった。
然し、いつもそれと一緒に、あの場所で逢った山鹿十介のことを、聯想するのである。
(そうだ、あいつ[#「あいつ」に傍点]の別荘というのを見てやろうかな――)
そう思いつくと、恰度眼の先に近づいた十字路を左に採った。
彼は、あの山鹿には相当ひどい目にあっていたし、そして又、叔父の田母沢源助《たもざわげんすけ》からは交際を厳禁されていたのであったけれど、それが却《かえ》って好奇心ともなって、
(家を見るだけ位《ぐらい》ならいいだろう――)
と自分自身に弁解しながら、それに、あの場所にい合せた唯一の知人ともいう気持から、いつか足を早めて、夜道を歩き続けていた。
むくむくと生えた生垣《いけがき》のつづいた路は、まるで天井のないトンネルのように暗かったけれど、空には、恰《あた》かも孔《あな》だらけの古ブリキ板を、太陽に翳《かざ》し見たように、妙にチカチカと瞬く星が、一杯にあった。
その星明りの中に、ところどころの別荘の、干物台が聳《そび》えたち、そこにはまだ取入れられていない色華やかなモダーンな海水着が、ぺたんこ[#「ぺたんこ」に傍点]になって、逆立ちをしたり、横になったり、股《また》をひろげたりして、ぶら下っているのが見え、それが、あたりがシーンと静もりかえっているせいか、昼間の華やかさと対照的に、ひどく遣《や》る瀬《せ》なく思われるのであった。
……やがて、その生垣の路が、一軒の釣具屋の灯に切られ、橋を渡ると、夜目にも黝《くろ》く小高い丘が、山鹿の別荘のあるという松林である。
山鹿の別荘は、すぐ解った。
疎《まばら》に植えられた生垣越しに覗《のぞ》き見ると、それは二階建の洋風造りで、あか抜けのした瀟洒《しょうしゃ》な様子が、一寸《ちょっと》、鷺太郎に舌打ちさせるほどであった。二階にたった一つ、灯が這入《はい》っているほか、シーンとしていた。おそらく山鹿は、海の銀座、Y海岸の方へ、出かけてしまったのであろう――。
そう思って、踵《くびす》をかえそうとした時だ。
そのドアーが、灯もつけずに、ぽっかりと内側へ引開けられた。はっと無意識に生垣へ身を密《ひそ》めた鷺太郎の目に、白の半ズボンに白のシャツの男と、も一人、矢張《やは》り白地に大胆な赤線を配したズボンを穿《は》いた断髪の女とが、ひょっこり現れた。あたりは暗かったけれど、その二人の服装が白っぽかったので、鷺太郎にはその輪廓《りんかく》を読みとることが出来、一人はたしか山鹿だ、と断定はしたが、も一人の女性の方は、山鹿と交際していないので誰だったか解ろう筈《はず》もなかった。
二人は、この身を密めて窺《うかが》っている鷺太郎には気づかなかったらしく、肩を並べて歩きだした。そして、Y海岸への散歩であろうと思っていた彼の予想を裏切って、こんな時間に、もう人通りもないであろうと思われるZ海岸の方へ向って、ぶらぶらと歩いて行った。
鷺太郎は、一寸|躊躇《ためら》ったが、すぐ思いなおして、そのあとを気づかれないように追《つ》いて行った。別にこれ[#「これ」に傍点]という意味はなかったのだけれど、恰度《ちょうど》その方向が、帰り路《みち》になっていたせいもあり、又、彼の「閑《ひま》」がそうさせたのだ。
山鹿と、そのモダーンな女とは、一度も振りかえりもせず、時々ぶつかり合うほど肩を寄せ(彼との間は相当あったのだが、なにしろ、その二人が、夜目に浮出す白服だったので)何か熱心に話し合いながら、真暗な夜道を、淋しい方へと撰《よ》るように、進んで行った。その路は、そう思わせるほど、暗く淋しかったのだ。この夏の歓楽境《かんらくきょう》K――に、こんな寂《じゃく》とした死んだようなところがあるのか、と思われるほど……、いや、Y海岸が桁《けた》はずれに賑《にぎ》やかな反動として、余計こちらが淋しく感じられるのかも知れないが――。
そんなことを鷺太郎は考え乍《なが》ら、それでも生垣を舐めるように身を密ませながら追いて行くうち、いつか住宅地も杜絶《とだ》えて、崖の上に出た。そこは、背に西行寺《さいぎょうじ》の裏山が、切立ったような崖になって迫り、わずか一|間《けん》たらずの路をつくると、すぐ又前は二間ばかりのだらだらした草叢《くさむら》をもった崖になって、眼《め》の下の渚に続いていた。つまり、その路は、崖の中腹を削ってつくられた小径《こみち》であった。
其処《そこ》へ立つと、海面《うなも》から吹渡る潮風が、まともにあたって、真夏の夜だというのに、ウソ寒くさえ感じられた。
遥か左方《さほう》、入りくんだ海をへだてて、水晶の数珠玉をつらねたように、灯《ひ》の輝いているのが、今、銀座のように雑沓しているであろうY海岸であった。然《しか》し、この人っ子一人見えぬ、灯一つないこの場所では、すでに、闇の中に海もひっそりと寝て、黒繻子《くろじゅす》のような鈍い光沢を放ち、かすかに渚をあらう波が、地球の寝息のように、規則正しく、寄せてはかえしていた。
山鹿とも一人は、そこまで来ると、つと[#「つと」に傍点]立止った。
そして前跼《まえこご》みになって、何か捜しているようだったが、それは、崖を下る小径だったと見えて、軈《やが》て、その二人の白服《しろふく》は、するすると真黒い草叢《くさむら》の中へ消えてしまった。
(おや、どうするんだろう――)
と頸《くび》をかしげた鷺太郎は、
(む、海岸へ下りて、渚づたいに帰ろうというんだな)
と思いなおした。
ダガ、不思議なことには、そう長い時間がかかろうとも見えぬ、崖の草叢《くさむら》に下りて行った二人の姿は、それっきり、鷺太郎の視界から、拭いさられてしまったのだ。
月はなかったけれど、星は降るように乱れ、その仄《ほのか》な光りで、崖の上からは、眼の下の海岸を歩く白服が、見えぬ筈《はず》はなかった。
恋人同志らしい二人|連《づれ》の姿が、人気のない海岸の草叢の中に消えてしまった、ということに、他人の色々な臆測は、却《かえ》っておせっかい[#「おせっかい」に傍点]かも知れない、鷺太郎は一寸《ちょっと》、こんな時、誰もが感ずるであろうような、皮肉じみた笑いが片頬《かたほほ》に顫《ふる》えたが――、鷺太郎は、何とはなく、不安に似た苛立《いらだ》たしさを覚えたのだ。それは不吉な予感とでもいうのであろうか。
到頭《とうとう》、たまり兼ねたように、大きく伸びをすると、それでも跫音《あしおと》をしのばせ乍《なが》ら、注意深く歩いて行って、さっき二人が下りたらしい崖の小径を捜して見た。
淡い光の中で、やっと捜し当てみると、それは、小さい崖くずれで、自然に草叢《くさむら》が潰されて出来たような、ざらざらとした小径で、その周囲には腰から胸辺りにまで来る、名も知らぬ雑草が生いしげり、黒い潮風に、ざわざわと囁《ささや》き鳴っていた。
鷺太郎は、その小径のくずれかかった中程《なかほど》で足をとめ、尚《なお》一層注意深く、耳を澄まして見たが、あたりはまるでこの世の終りのように、シーンと静もりかえって、葉ずれの音以外、なんの物音も聴えなかった。
(二人とも、何処へ行ったんだろう……)
考えてみれば、あの二人が何処へ行こうと、お節介な話のようであったけれど、彼はなぜか胸のどきどきする不安を感じていたのである。そして、それは果して彼の危惧ではなかった。
鷺太郎が、その小径を下の草叢にまで下りたち、もう一度、前跼《まえこご》みになって、あたりを見透かした時だった。右手の方、一間半ばかり離れて、雑草の中に、何か、時々ぼーっと浮き出る白いものが眼についた。
(おや――)
と、我知らず早鐘《はやがね》を打ちだした胸を押えて、露っぽい草を掻《か》きわけながら、近寄ってみると、
『あっ……』
ギクン、と立止った。
さっきから感じていた何か知らぬ不安は、矢《や》ッ張《ぱ》り事実だったのだ。
そこには、あの山鹿の家《うち》から追《つ》けて来た、若い女が、棄《す》てられたように、ぐったりと寝ている、いやそればかりでない、その左の胸の、こんもりとした隆起の下には、匕首《あいくち》が一本、ぐさりと突刺っているのだ。……その匕首のつけ根から流れ出た血潮が、あの白地に大胆な赤線を配した洋服の上へ、さっと牡丹《ぼたん》の花を散らしたように、拡がっていた。
そして、それが、生い繁った雑草の中に寝かされてあり、その夏草の葉蔭にとまった蛍が、無心に息づく度に、ぼーっと蒼白い仄な光りと共に、それが隠し絵のように、浮び出るのであった。
蛍火が、絶入るばかりに蒼白かったせいか、その美しい貌《かお》だちをもった、まだ十七八の少女の顔が、殊更《ことさら》、抜けるように白く見え、その滑かな額には、汗のような脂《あぶら》が浮き、降りかかった断髪が、べっとりと附《くっ》ついていた。そして、それと対照的に、ついさっき塗られたばかりらしいルージュの深紅と血潮とが、ぼーっと明るむたびに、火のように眼に沁《しみ》るのだ。
太陽のもとでは、さぞ酷《むごた》らしいであろうその屍体《したい》が、このぼーっ、ぼーっと照しだされる蛍火の下では、どうしたことか却って、夢に描かれたように、ひどく現実離れのした倒錯した美しさを見せるのであった。
――鷺太郎は、恐ろしさというよりも、その蛍火の咲く夏草の下に、魂の抜け去った少女の、この世のものでない美しさに、心を搏たれてしまったのだ。
四
軈《やが》て、はっと我れにかえった鷺太郎は、思い出したように、
(警察へ――)
と気づくと、大急ぎで、又崖を馳上り、夜道を巡査派出所の方へ馳けはじめた。
『白藤さん……じゃないですか』
と、行く手の方から、ふらりふらりやって来た男が、擦れちがいざま、名を呼んだ。
彼は、名を呼ばれて、ギクンと立止った。
『あ、やっぱり――。どうしたんです。馬鹿にあわててるじゃないですか』
『え?』
そういった男の顔を覗き込んだ鷺太郎は、
(あっ――)
と、も少しで叫ぶところであった。
その男が、あの山鹿十介なのだ。
山鹿十介は、浴衣がけに下駄ばき、おまけに、釣竿までかついでいた。
『どうしたんです、一体……』
相手は至極《しごく》落着いていたが、鷺太郎は、しばらく返事の言葉が思いつかぬほどだった。
タッタ今まで、山鹿だと思っていたその本人が、いまここに、怪訝《けげん》な顔をして突立っているではないか。
(それでは、あの白服の山鹿十介は何処へ行ったのだ――)
山鹿の別荘から出て来たのは慥《たしか》だけれど、尤《もっと》も考えてみれば、後姿を、それも輪廓だけで、或は別人だったのかも知れない――と思いついた。
(それにしても、あの男は何処へ消えたのだろう――)
その男が、殺人の下手人であることは、十中八九間違いはないことだけれど、どうやら山鹿と思ったのは、暗がりの見違いだったらしい。
『どちらへ……』
『夜釣りに行こうか、と思ってね――、どうしたんです。お化けでも出たんですか』
山鹿は、例の皮肉な笑いを、浮べていた。
『お化け?――いや、それどころじゃない、人殺しですよ』
『え、人殺し――、又ですかい』
山鹿も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、また、綺麗な女の子ですよ』
『そいつあ大変だ、何処です、それは――』
『つい、この先の草叢なんで……』
鷺太郎は、話ながら、あの夏草の蔭で、蛍火に浮出されている、凄い美しさを思い出した。
『兎《と》に角《かく》、警察だ――』
山鹿は、クルッと振向くと、今来た方へ、鷺太郎と並んで釣竿をかついだ儘《まま》、すたすたと歩き出した。
二人は、もう口を利かなかった。
山鹿には、以前気まずい思いをして、もう二度と口をきくまいと別れた鷺太郎ではあった
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