鱗粉
蘭郁二郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)邦《くに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|様《よう》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+息」、311−4]《ほ》っと
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一
海浜都市、K――。
そこは、この邦《くに》に於《お》ける最も華やかな、最も多彩な「夏」をもって知れている。
まこと、K――町に、あの爽やかな「夏」の象徴であるむくむくと盛り上った雲の峰が立つと、一度にワーンと蜂の巣をつついたような活気が街に溢《あふ》れ、長い長い冬眠から覚めて、老《おい》も若きも、町民の面《おもて》には、一|様《よう》に、何《なに》となく「期待」が輝くのである。実際、この町の人々は、一ヶ年の商《あきない》を、たった二ヶ月の「夏」に済ませてしまうのであった。
七月!
既に藤の花も散り、あのじめじめとした悒鬱《ゆううつ》な梅雨が明けはなたれ、藤豆のぶら下った棚の下を、逞《たく》ましげな熊ン蜂がねむたげな羽音に乗って飛び交う……。
爽かにも、甘い七月の風――。
とどろに響く、遠い潮鳴り、磯の香――。
「さあ、夏だ――」
老舗《しにせ》の日除《ひよけ》は、埃《ほこり》を払い、ペンキの禿《は》げた喫茶店はせっせとお化粧をする――若い青年たちは、又、近く来るであろう別荘のお嬢さんに、その厚い胸板を膨らますのである。
海岸には、思い立ったように、葭簀張《よしずば》りのサンマアハウスだの、遊戯場だの、脱衣場だのが、どんどん建てられ、横文字の看板がかけられ、そして、シャワーの音が奔《ほとばし》る――。
ドガァーン。ドガァーン。
海岸開きの花火は、原色に澄切った蒼空《あおぞら》の中に、ぽかり、ぽかりと、夢のような一|塊《かたま》りずつの煙りを残して海面《うなも》に流れる。
――なんと華やかな海岸であろう。
まるで、別の世界に来たような、多彩な幕が切って落されるのだ。
紺碧《こんぺき》の海に対し、渚にはまるで毒茸《どくたけ》の園生《そのう》のように、強烈な色彩をもったシーショアパラソル、そして、テントが処《ところ》せまきまでにぶちまかれる。そこには、その園生の精のような溌剌《はつらつ》とした美少女の群れが、まる一年、陽の目も見なかった貴重な肢体を、今、惜気もなく露出《ろしゅつ》し、思い思いの大胆な色とデザインの海水着をまとうて、熱砂《ねっさ》の上に、踊り狂うのである。
――なんと自由な肢体であろう。
それは、若き日にとって、魅力多き賑《にぎ》わいである。
二
胸を病んだ白藤鷺太郎《しらふじさぎたろう》は、そのK――町の片隅にあるSサナトリウムの四十八号室に居た。
あの強烈な雰囲気に溢れたY海岸からは、ものの十五丁と離れぬ位、このサナトリウムだのに、恰度《ちょうど》其処が、崖の窪みになっていて、商店街からも離れていたせいか、一年中まるでこの世から忘れられたように静かだった。
然し、このサナトリウムにも、夏の風は颯爽と訪れて来る。白藤鷺太郎は、先刻《さっき》からの花火の音に誘われて、二階の娯楽室から、松の枝越しに望まれる海の背に見入っていた。
ポーン、と乾いた音がすると、ここからもその花火の煙りが眺められるのである。
(今日は、海岸開きだな……)
鷺太郎は早期から充分な療養をした為《ため》、もういつ退院してもいい位に恢復していた。だが、折角《せっかく》のこのK――の夏を見棄て周章《あわて》て、東京に帰るにも及ぶまい、という気持と、それにこのサナトリウムが学友の父の経営になっている、という心安さから、結局、医者つきのアパートにでもいる気になってこの一夏はここの入院生活で過すつもりでいた。
(行ってみようかな)
もう体も大丈夫、と友人の父である院長にいわれた彼は、好きな時間に散歩に出ることが出来た。
彼は、うんと幅の広い経木《きょうぎ》の帽子をかぶると、浴衣《ゆかた》に下駄をつっかけて、サナトリウムの門を抜け、ゆっくり、日蔭《ひかげ》の多い生垣《いけがき》の道を海岸の方に歩いて行った。
軈《やが》て、生垣がとだえると、ものものしく名の刻まれた一|間《けん》ばかりの石橋を渡る――そこから右に折れればY海岸が、目の下にさっと展《ひら》けるのだ。
鷺太郎は、その小高い丘の上に立って、びっくりするほど変貌した海岸の様子に眼を見張っていた。
蒼空の下《もと》、繰りひろげられた海岸の風景は、なんと華やかな極彩色な眺めであったろう。まるで百花撩乱のお花畑のような、ペンキ塗りの玩具箱《おもちゃばこ》をひっくり返したような、青春の夢のように美しくも目を奪うものであった。それは恰度ここ数日の間に、東北の僻村から銀座通りへ移されたような、驚ろくべき変化だった。
あの悄々《しょうしょう》と鳴り靡《なび》いていた、人っ子一人いない海岸の雑草も、今日はあたりの空気に酔うてか、愉《たの》しげに顫《ふる》えている。無理もない、この海浜都市が、溌剌《はつらつ》たる生気の坩堝《るつぼ》の中に、放り込まれようという、今日《きょう》がその心もうきたつ海岸開きの日なのだから――。
沖には、早打ちを仕掛けた打上げ船が、ゆたりゆたりと、光り輝く海面《うなも》に漾《ただよ》い、早くも夏に貪婪《どんらん》な河童共の頭が、見えつ隠れつ、その船のあたりに泳ぎ寄っていた。それが、恰度《ちょうど》青畳の上に撒《ま》かれた胡麻粒《ごまつぶ》のように見えた。
鷺太郎は、雑草を分けると、近道をして海岸に下《お》り立った。
砂は灼熱《しゃくねつ》の太陽に炒《い》られて、とても素足で踏むことも出来ぬ位。そして空気もその輻射《ふくしゃ》でむーっと暑かった。そして又ワーンと罩《こも》った若い男女の張切った躍動する肢体が、視界一杯に飛込んで来て、ここしばらく忘れられたようなサナトリウムの生活を送っていた彼は、一瞬、その強烈な雰囲気に酔うたのか、くらくらっと目の眩暈《くら》むのを覚えたほどであった。
長い間の、うるさい着物から開放された少女たちの肢体がこんなにまで逞《たくま》しくも、のびのびとしているのか、ということは、こと新らしく鷺太郎の眼を奪った。
なんという見事な四肢であろう。まだ陽に焼けぬ、白絹《しらぎぬ》のようなクリーム色、或《あるい》は早くも小麦色に焼けたもの、それらの皮膚は、弾々《だんだん》とした健康を含んで、しなやかに伸び、羚羊《かもしか》のように躍動していた。そして又、ぴったりと身についた水着からは、滾《こぼ》れるような魅惑の線が、すべり落ちている……。
或は笑いさざめき乍《なが》ら、或は高く小手をかざしながら、ぽかんと佇立《つった》った鷺太郎の前を馳抜《かけぬ》ける時の、美少女の群の中からは、確かに磯の香ではない、甘い、仄かな、乙女のかおりが、彼の鼻腔につきささる――。
彼はもう、ただそのぴちぴちと跳ねる空気に酔ったように立っていたが、漸《ようや》くこの裸体国の中で、たった一人、浴衣に経木帽《きょうぎぼう》という自分の姿が、ひどく見窄《みすぼら》しく感じられて、肩をすぼめてその一|群《むれ》のパラソルの村を抜けると、後方に設けられた|海の店《シー・ストア》の一軒「サフラン」に這入《はい》った。
彼はデッキチェアーに靠《もた》れて、沸々《ふつふつ》とたぎるソーダ水のストローを啣《くわ》えた儘《まま》、眼は華やかな海岸に奪われていた。
――こういう時に、青年の眼というものは、えてして一つの焦点に注がれるものなのである。
御多聞《ごたぶん》にもれず、鷺太郎の眼も、いつしか一人の美少女に吸つけられていた。
勿論《もちろん》、見も知らぬ少女ではあったが、この華やかな周囲の中にあっても、彼女は、すぐ気づく程きわだって美しかった。
そのグループは深紅と、冴えた黄とのだんだら縞《じま》のテントをもった少女ばかりの三人であった。
鷺太郎の眼を奪った、その三人組の少女は、二人|姉妹《きょうだい》とそれに姉のお友達で、瑠美子《るみこ》――というのが、その姉娘の名であった。
彼は、その瑠美子にすっかり注目してしまったのである。まことに、なんと彼女を形容したらいいであろうか。その深紅の海水着が、白く柔かい肢体に、心にくいまでにしっかり[#「しっかり」に傍点]と喰込み、高らかな両の胸の膨らみから、腰をまわって、すんなりと伸びた足の先にまで、滑らかに描かれた線は、巨匠の描く、それのように、鮮やかな均斉のとれた見事さであった。
そして、その白く抜けた額《ひたい》に、軽がると降りかかるウエーヴされた断髪は、まるで海草のように生々《なまなま》しく、うつくしく見えた。
彼女は何んの屈託気《くったくげ》もなく、朗らかに笑っていた。そしてその笑うたびに、色鮮やかに濡れた脣《くちびる》の間から、並びのよい皓歯《こうし》が、夏の陽に、明るく光るのであった。
『じゃ――、泳いでこない?』
『ええ、行きましょう――』
砂を払って立った三人の近代娘は、朗らかに肩を組んで、渚を馳けて行った。その断髪のあたまが、ぷかぷかと跳ねると、やがて、さっとしぶきを上げて、満々とした海に、若鮎のように、飛込んで行った。
※[#「口+息」、311−4]《ほ》っと、鷺太郎は無意味な吐息をもらして、見るともなくあたりへ眼をやると、
『あ――』
彼は、思わず、啣《くわ》えた儘《まま》のストローから口をはなした。
その三人組の少女のテントからは、二十|間《けん》ほど離れた反対側に、海水パンツ一つではあったが、その上、光線除けの眼鏡をかけてはいたが、あの、山鹿十介の皮肉に歪んだ顔を、発見したのだ。
山鹿十介、この男については、鷺太郎は苦い経験を持っていた、というのは山鹿はまだ三十代の、一寸《ちょっと》苦味走《にがみばし》った男ではあったが、なかなかの凄腕をもっていて、ひどく豪奢《ごうしゃ》な生活をし、それに騙されて学校をでたばかりだった鷺太郎が、言葉巧みにすすめられる儘《まま》、買った別荘地がとんだインチキもので、相当あった父の遺産を半分ほども摺《す》ってしまい、そのためにひどく叔父に怒られて、自分の金でありながら、自由に出来ぬよう叔父の管理下におかれてしまったのだ。
くやしいけれど、一枚も二枚も上手の山鹿には、法律的にもどうすることも出来なかった。結局、鷺太郎は高価《たか》い社会学の月謝を払ったようなものだった。
ところで、今、幸い山鹿の方では気づかぬようなので、この間に帰ろうか、それとも、一言|厭味《いやみ》でもいってやろうか――と考えてみたが、とてもあの悪辣《あくらつ》な男にはかなうまい、というより、
(もう、一さいつき合うな――)
といわれた叔父の言葉を思い出して、腰を上げた時だった。
あの瑠美子《るみこ》を中心とした三人は、行った時のように、朗らかに笑い興じながら、馳足《かけあし》で上《あが》って来た。水に濡れて、尚ぴったりと身についた海水着からは、ハッキリと体中の線が浮び出て、一寸《ちょっと》彼の眼を欹《そばだ》たせた。
『さむいわねエ――』
『そうね、まだ水がつめたいわ』
『あら、瑠美さん、脣《くちびる》の色が悪いわよ……』
『そう、なんだか、寒気《さむけ》がするの――』
『まあ、いけないわ、よく陽にあたってよ……』
『ええ――』
彼女は、寒むそうに肩をすぼめると、テントの裏側の、暑い砂の上に、身を投げるように、俯伏《うつぶせ》になったまま、のびのびと寝た。
ぽとりぽとりとウエーヴされた断髪の先から、海水がしたたって、熱く焼けた白砂に、黒いしみ[#「しみ」に傍点]を残して消えた。すんなりと伸びた白蝋《はくろう》のような水着一つの美少女が、砂地に貼つけられたように寝ていると、そのむき出しにされた、日の眼も見ぬ福よかな腿のふくらみが、まだ濡れも乾かずに、ひどく艶
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