がる音がした。
 鷺太郎は、反射的に、生垣にぴったり身をすりつけて、構えながら息をこらした。……が、あたりには、なんの音もしなかった。
『どした――』
 呶鳴《どな》るようにいうと、
『が、蛾だ、蛾だ』
 その声は、この夏だというのに、想像も出来ぬほど、寒《さ》む寒《ざ》むとした嗄《しわが》れた声だった。
『蛾――?』
 鷺太郎は、唖気《あっけ》にとられてききかえした。
『なんだ、蛾がそんなに怕《こわ》いのか――』
 袂《たもと》をまさぐって、マッチを擦ると、転がったカンテラを拾って火を移した。
 その、ボーッと明るんだ光の中に、山鹿が、日頃の高慢と、皮肉とを、まるで忘れ果たように、赤ン坊の泣顔のような歪《ゆが》んだ顔をして、一生懸命、カンテラの火を慕って飛んで来たらしい蛾が、右手にとまったと見えて、まるで皮がむけてしまいはせぬか、と思われるほど、ごしごし、ごしごしと着物にこすりつけて拭いていた。
 暫らく鷺太郎は、その狂気|染《じみ》た山鹿十介の様子をぽかんと見詰めていたが、軈《やが》て、山鹿はほと溜息をつくと、尚もいまいましげに、右手の甲をカンテラに翳《かざ》しみてから、いくらか気
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